本記録は越前屋晃一氏が自身のサイト「山と渓谷のへっぽこ雑技団」に掲載したものです。越前屋氏が2008年1月に不慮の事故で亡くなられた後、サイトは閉鎖され現在は閲覧することができません。生前、本記録にリンクすることを承諾いただいておりましたので、故人を偲んでここに貴重な記録を復刻します。

引馬峠越え【川俣温泉〜檜枝岐】


【山行日】 2005年9月26〜30日
【メンバー】 単独
【2万5千図】 「川俣温泉」「帝釈山」「檜枝岐」
【コースタイム】 9/26 鬼怒川温泉駅発・栗山村営バス(13:15)ー川俣温泉(14:42)ー民宿(14:50〜15:10)
               −川俣運動公園前バス停(15:30)−渡渉ポイント確認(16:20)ー民宿(17:00)
          9/27 民宿発(6:00)ー川俣運動公園前バス停(6:15)-1385P(10:00)ー平五郎山(12:00〜35)
              ー1725P(14:10)-1781P(15:10)ー1816p泊(16:37)
          9/28 出発(6:10)ー1860Pコンパス紛失(8:00〜9:00)ーホウロク平(11:29)
              ー方向を失うホウロク平の下り(11:50〜12:50)ー1896P(13:40)ー方向を再び失う(15:00〜16:00)
              ー1810P鞍部泊(16:30)
          9/29 出発(6:20)ー引馬峠(6:45)ー火打石沢源頭(7:53)ー県境尾根交差点(10:15)ー1981.7P(11:02)
              ー下降ミス登り返し(11:50)ー1981.7P復帰(12:25〜50)ー古道(13:30)ー檜枝岐・台倉高山分岐
              (15:58)泊
          9/30 出発(6:20)ー下降開始(8:45)ー尾根復帰1820P(10:48)ー越ノ沢廃道(12:02)ー黒沢廃道(13:48)
              ー舟岐橋(15:08)ー檜枝岐・民宿(15:50)  
【参考文献】『栗山村誌』 栗山村誌編さん委員会 編集  栗山村発行
        『奥鬼怒山地 − 明神ヶ岳研究』  橋本太郎 著  1984年 現代旅行研究所発行
        『帝釈山脈の沢』 市川学園山岳OB会・佐藤勉 編著 2001年 白山書房
        『静かな山60』 石井光造 著 1997年 白山書房
        『岳人』1997年10月号NO.604(帝釈山脈縦走) 服部文祥 
        
「高原山探訪」(WEBサイト)より
【山行後に読んだ文献】
        『会津長江庄桧枝岐村耕古録』 星知次 編著 S53年 桧枝岐村発行
        『山人の賦 III―桧枝岐・山に生きる』 平野福朔・平野勘三郎 述/志村俊司 編  1988年二月 白日社発行
【関連書籍】『引馬峠』 辻まこと 著 辻まこと全集T みすず書房       
        

【概念図】

はじめに

(富士見峠では)交易される物資の量や回数も少なく、主として無人交易が行われた。例えば、栗山の人が荷物を峠まで持っていった時には自分の家の品物だとわかるよう、屋号を目印にした。日光側との取り引きあいてはきまっていたので、相手側が用意してあった品物を持って帰った。物々交換の形で交易されていたわけである。・・・・引馬峠は、会津檜枝岐との交易の中継地になった。ここでも、富士見峠のような無人交易が行われた。

『栗山村誌』からの引用である。

引馬峠の存在を最初の知ったのは『岳人』の「帝釈山脈縦走」の記録であった。当時、藪こぎ縦走に目覚めたばかりの私はこの藪と倒木の栃木・福島県境尾根に惹きつけられて3人のパーティを組みいそいそと出かけて行った。2000年10月のことであった。残念ながらこの時は孫兵衛山から県境尾根に戻り引馬峠付近でワンデリングをすることになり、時間切れ敗退となった。しかし、ここで見た一本の古木に刻み付けられた「←ヒノエマタ」「↑タシロ」という切り付けが忘れられず、以来いま一度あの切り付けのある古木に会いたいと願っていた。

再び、帝釈山脈縦走にのぞんだのは2003年10月だった。迷走の挙げ句だったが、奧鬼怒温泉から木賊温泉まで何とか縦走することができた。しかし、あの切り付けのある古木は見当たらず、引馬峠は幻のままに終わった。

今年2005年になって諦めきれずに、栗山村役場に電話をして問い合わせたところ、『村誌』が刊行されていることがわかり、この峠が栗山村と檜枝岐村の交易の中継点になっていたことがはっきりした。古い杣道、古木に刻まれた切り付けは想像どおり生活の足跡だったのである。

藪こぎのシーズンを待って資料の収集と計画を始めた。当初、奧鬼怒温泉郷の駐車場から黒沢沿いの林道から尾根に乗って引馬峠にたどりつき檜枝岐に下降という心づもりでルートを検討していたが、『高原山探訪』というHPの記録から平五郎山経由の尾根づたいのルートが浮かび上がってきた。しかし、ここもやはりきびしい藪こぎの尾根ということであった。やはり黒沢林道経由が正解なのであろうか。

さらに、このサイトに紹介されていた『奧鬼怒山地ー明神ヶ岳研究』にある記録から思わぬ事実が浮かび上がってきた。この『奧鬼怒山地ー明神ヶ岳研究』は「わらじの仲間」OBの橋本太郎氏による著作だが、出版元を調べてもすでに絶版らしく手に入れることが出来なくなっていた。宇都宮図書館に所蔵されていることが確認出来たので電話をして相談してみると、地元の図書館を経由してなら貸し出しても良いということであった。
以下、橋本氏による桧枝岐村の古老からの聞き取りである。

昔、平五郎山からの下りは、南西の長い尾根に入り、途中から西側の山斜面を下って錆沢上流の二俣のやや下ったところにおり沢ぞいに川俣温泉へでた。

『栗山村誌』にもこれを裏付ける記述がある。

カヤデとは、カヤぶきの屋根をふく職人のことである。会津檜枝岐村から、カヤデ(あるいは会津カヤデとよばれる)が秋にやってきた。カヤデのオヤカタは、事前に注文を受けておき必要に応じて人数をあつめてくるという。かつての民家は、カヤぶきであり屋根替えは、一代で一回と考えられていた。・・・カヤデの人数は、屋根替えの規模によって4、5人から10人以上になることもあった。・・・引馬峠を越えて、川俣に出てくるため、川俣が一番最初の仕事の場所になった。昭和30年代には、カヤぶき屋根がなくなりカヤデは来なくなってきたようだ。

昭和30年代までは萱葺き職人が檜枝岐村から引馬峠を越えて平五郎山から錆沢に下りて川俣温泉に来ていたのである。無人交易の道と大筋で重ねあわされていることを考えると当時は良く踏まれた峠道であったことが容易に想像できる。一日で峠越えをしていたという。とは言っても今はまったくの廃道である。行ってみなければ何がどうなっているのかわからないのだが、引魅せられた私にしてみればこの廃道を辿らない理由はみつからなかった。

当初の計画は、川俣温泉〜平五郎山〜引馬峠〜孫兵衛山〜引馬峠〜台倉高山〜少し戻った尾根〜越ノ沢沿い廃道〜桧枝岐村というものだった。予備日を入れて山中4泊5日の計画である。悪天、道迷いなどの不測の事態を計算に入れると最低でもこれ位はみて置く必要があった。孫兵衛山、台倉高山は既に踏んでいたのでこれも最悪の場合はカットしても良いと思っていた。引馬峠からの下りは火打石沢沿いのカヤデオリジナルルートにするか越ノ沢廃道にするか最後まで迷ったが、火打石沢の地形があまり良くないこととデータがほとんどとれなかったことで台倉高山分岐から越ノ沢廃道を選ぶことにした。

9月26日 川俣温泉

神奈川からだと、平日のラッシュをさけて9時に出発すると電車とバスを乗り継いで川俣温泉に着くのは15時をまわります。錆沢に近いという条件で決めた民宿「きぬ姫」のご主人の84歳になるおやじさんの「昔のことで細かいことはすっかり忘れちまっただが、カヤふきの職人が平五郎山から下ってきた道があっただよ」という一言に古い峠道の取り付きが錆沢にあることがまちがいないという確信を強くして、錆沢の偵察に出かけることにした。

噴泉塔脇にそそぎ込むように錆沢があった。萱葺き職人は錆沢を下降点からそのまま下ってきたようであるが、今は堰堤にはばまれて遡上することはとてもできそうもなかった。奧鬼怒林道をしばらく歩くと川俣運動公園前のバス停から奧鬼怒林道錆沢支線がでている。

経路沢を合わせてまもなく地形図上にある堰堤が見えた。対岸には平五郎山の尾根から南西に延びる支尾根が確認できた。沢に降りてみるとすぐ上は二俣になっている。これで明日の取り付きが確認できた。

少し気持ちに余裕が出来て、噴泉塔の展望台でしばらく温泉の吹き上げるのをながめていたが、平日でもあり人の気配もなくうら寂しいものであった。


9月27日 平五郎山〜


6:00、民宿を出発。昨日の渡渉ポイントの対岸にはすぐに古い赤ペンキの跡が見つかりましたが、しばらくは激しい藪こぎになった。尾根に乗ると急登だが確かな踏み跡があり、これが屋根ふきの職人が辿った古道なのだと思うと感慨深いものがある。
1385Pで南尾根に乗り、踏み跡がしっかりしてきた。平五郎山直下は潅木と藪がうるさくなるが、赤布や赤テープがあり、どうやら尾根の末端から登られて今も登山の対象になっているようだ。

12:00。平五郎山山頂に立つ。展望もなく藪に囲まれた山頂に塩谷郡栗山村・1700m平五郎山と読むことのできる発泡スチロールの山名板が割れて散らばっていた。かき集めて写真を撮る。昼食がてら30分ほど休憩を取ってから西の尾根に向かってしばらくすると三角点があった。まわりは小奇麗な円地になっていて、ここだけ手が入っているのが不思議な感じがする。

1725Pを前にして藪が濃くなり、このあたりまであった真新しい赤布が消えた。ここから先はおそらく完全に自分の判断で進むしかなくなると考えるとちょっとした緊張感が・・・。


1725Pから先は踏み跡も薄くではあるが残っていて比較的快適。わずかに1781Pの急登が辛いだけである。こんなもので終わるはずがないと思っていたが、1816Pの登りにかかり激しいチシマザサ(いわゆるネマガリタケ)の藪が待っていた。身長をはるかに超え、おそらく2.5〜3mはあるだろう密藪だった。
結局1725Pから1816Pまでおよそ1キロの距離を2時間30分もかかってしまった。この先の藪にもういちど入れば抜け出す前に日没になることは間違いなかった。いくら藪こぎが好きといってもこんな藪の中にテントを張るのはとても無理な相談である

16:40。藪の薄いところ整備してテントを張り今日の行動を終えることにした。


9月28日 ホウロク平


6:10。藪の中での一夜が明けて、簡単な朝食を済ませて出発。ヌタ場を避けて場所を選んだ甲斐があったのか獣の気配に悩まされることもなくよく眠れた。もっとももともと眠りの深いほうなので鹿がないたぐらいではまず目を覚ますこともないのだが・・・
スタートからしばらくは腰程度の笹薮でこの程度で済んでくれたら楽なのだがなぁと考えていたが、まもなくすず竹の密藪が始まった。藪の中に明らかに人間の手の入った倒木が転がっていて薄く踏んだ跡らしきものもある。これが峠道の跡なのか、と考えながら進んだ。写真に残った時刻は7:01であった。

この先は、潅木とチシマザサの密生した藪が行く手に立ちふさがるが、尾根の中央を強引に突破し藪が切れた。ここで確認のために首からさげたコンパスに手をやると、コンパスがなくなっていた。どうやら藪にひっかけて飛ばしてしまったようだ。最悪の事態である。

悲嘆にくれていても仕方がないのでとにかく、捜してみることにして赤テープを巻きながら30分ほどうろついたが、見付かるはずもない。撤退も考えたが、この藪尾根をコンパスなしで下ることはある意味で非常に危険でもある。万一にそなえてGPSは持ってきている。少なくても現在地の確認だけはできる。主稜線通しに進んで尾根さえはずさなければ引馬峠はここからさほど遠くはない。


かなりのピンチな情態だったはずだが意外に冷静だった。日程はたっぷりある。この時点孫兵衛山と台倉高山のピストンは放棄したので予備日は3日あることになる。昨日一日で引馬峠に立てなかったが、それでもまだ2日残っている。


とはいうものの、かなりうろたえていたのかもしれない。このあたりの記憶はあいまいで30分ほど登ったところで1896Pの手前の広いピークに着いた。(9:19)おそらくこのあたりがホーロク平であろう。「ホーロク」というのは会津の言葉で迷うというような意味だそうである。ホーロク平だとすれば、当時このあたりに物々交換の小屋が建っていたことになる。ここから尾根は西に方向を変える。

このあたりは尾根も広く、尾根の方向も方向も微妙に変ってくる。コンパスなしでここから先は歩くのはかなり難しかった。GPSのコンパス機能にはタイムラグがあって混乱を招いた。主稜線を追うのだが支尾根に引き込まれて登りかえすことの繰り返しで引馬峠直前の鞍部の幕場に到着したのは16:30だった。

幕場の周辺はシラネアオイの群生地であった。このあたりのルートの整備に栗山村が消極的なのはこのシラネアオイの盗掘をおそれるからとも聞いている。日本中の山に登山道を切り開く必要はないのだと思う。大事にそっとしておく方が良いところ所もあるはずなのだ。


9月29日 引馬峠〜檜枝岐・台倉高山分岐


テントの撤収をしている時に木が赤く色づいていることに気がついた。これも一種のモルゲンロートなのであろうか。思いがけない景色に息を飲んだ。

朝日が右から昇り始めた。右が東だから、北の引馬峠はそのまま前に進むことになる。「太陽は右から昇る!」ガッツ石松の迷言がふと浮かんできて、ドツボにはまっているのではないかという不安に襲われて何度も確認を繰り返した。妙な感じだった。6:00出発。

やはり、想像通り踏み跡が残っている。昭和30年代に放棄されてから40年を経て残された歴史の証言を踏んでいることになる。気がつくと、県堺尾根を越えていたのでいちど戻って周辺を探索することにした。

そのまま下ると火打石沢の源頭に出た。(7:53)このあたりは水の確保に不自由することはないはずだが念のためここで水の補給をした。

熊笹に埋まった踏み跡を追いかけて引馬峠の県堺尾根の交差ポイントに向かうと錆びた道標があった。これが昭和57年に橋本太郎氏が見た道標であろう。『奧鬼怒山地ー明神ヶ岳研究』の記述によればその時点でこの道標は錆びていて何が書かれているのか不明だったということだ。




周辺をかなり丁寧に捜してみたが、このあたりには道標らしきものは他には見当たらなかった。地図上の位置北緯36°55′17″東経139°25′54″の地点帝釈山脈との交差点を引馬峠の中心として考えるならば丁度ここ写真の場所になる。孫兵衛山への踏み跡も残っていた。

計画ではそのままトラバースして台倉高山方面に向かうはずだったが、せっかくのチャンスをむざむざ捨ててしまうのももったいないので1981.7(引馬山)に登った。もちろん登山道などあるはずもなく、適当に尾根に上がりいったん尾根を降りたところに突然踏み跡があらわれて山頂に立つ。
地形図上に山名もなく不遇の山である。どうやら引馬山と呼ばれているらしいと知ったのはごく最近のことである。ところが山頂はいつの頃に手が入ったのか、展望のための伐採が行われていた。3日目にして初めての展望であった。孫兵衛山、長須ヶ玉山、燧ヶ岳と南会津の山々を手に取るように望むことができた。


久しぶりの展望を楽しんでピークを下ることにしたが、一度尾根を越えてから下るはずなのにいっこうに尾根にあたらない。このままでは谷に下ってしまうことになると思い確認するとやはり違っていた。確かに北に向かっていたはずなのだが東に下りていた。また、GPS のタイムラグにはまったようである。急いで降りた分登り返しがきつかった。1981.7Pに復帰したのは1時間を過ぎていた。精神的にかなり消耗してしまったので、またここで一休みである。結局、再スタートは12:50であった。

13:30。1900m付近に台倉高山へ続くと思われる踏み跡があった。古い道標もあり山人の往来の偲ばれる古道である。水は十分に持っていたが沢の源頭がいくつもあり水の補給に苦労することもないだろう。

          

15:58。帝釈山脈1895Pから派生する尾根の1950m付近に広くなった場所があった。ここが『静かな山』にあった台倉高山と檜枝岐の分岐だと思われるのだが、分岐の指導標はどこにも見当たらなかった。本日はここまで。幕。この夜、阪神タイガースのリーグ優勝の実況中継がラジオから流れていた。

9月30日 越ノ沢廃道〜檜枝岐


6:30出発。1895の尾根を下り越ノ沢をめざしたが尾根が沢の中に消えていく。地形図とにらめっこをするが全く理解できない。いったん元に戻って、さらに登ってみるとピンクのテープがみつかった。林業関係者のものであろうか。だとすればもっとべたべた続いていても良いはずだがそうでもなさそうなのである。この先にも踏み跡らしきものはなく、谷の向こうにある1771.6の三角点のあるピークを目標にして強引に下ることにした。
9:30、越ノ沢の源頭に出た。このまま沢沿いに行けば良いのかと考えたが甘かった。谷が深くなってきて藪の深い支尾根を3本越えることになったが、古い伐採の跡があり、これを辿るとようやく最初にねらった尾根に乗ることが出来た。1920m付近であるが山仕事の跡が見える広い台地になっていた。

『静かな山』によればこの尾根が登山道として使われていたことになるが途中に伐採したきを越ノ沢に降ろしたとすために使ったとおもわれるワイヤーの残骸があるだけの荒廃した尾根であった。記録が19993年のものであり、分岐の道標もこうした理由で撤去されたのかもしれない。かなりの悪い下降路であり越ノ沢廃道に降り立ったときはホッとしたというのが正直なところである。

越ノ沢廃道は樺の立ち木の囲まれた平坦な道になっていた。

足下を見ると昨日今日につけられた真新しい足跡がひとつ点々とあった。しばらく歩くとこれもまた、真新しいペットボトルが捨てられている。こんなところにいったい何の目的で入ったのであろう。茸採りだろうか、あるいは釣りであろうか。靴は小さく女性のもののような気がした。いずれにしても勝手をしった村の人の人に違いない。
黒沢廃道へは橋でもかかっているのかと思ったが見当たらず、黒沢出合の手前で渡渉することになった。廃道には藪の泥壁を1500m付近まで登りトラバースしてようやく取り付くことができる。

廃道を発見して50mほどであろうか大型車両が楽に通ることの出来る立派な林道が突然現れた。
林道の再整備があったようだ。

思い入れの強かった引馬峠越えが終わりに近づいた。今晩は広窪あたりにテントを張って明日は檜枝岐の村だ。帝釈縦走の折に途中まで手が入っているのを見たが、最近台倉高山まで登山道が整備されたそうだ。途中にあった小さな湿原はどうなったのであろうか。

まもなくトヤス沢林道を合わせて舟岐橋をとぼとぼ歩いていると、台倉高山を登ってきたという車に拾われた。オヤジの一人歩きを拾ってくれる車があるとは思っていなかったので少し驚いたが、有難く便乗させてもらうことにした。

予定より早く檜枝岐に到着することになったので、自分で祝い気分を味わうことにして民宿に泊まることにして、「燧の湯」の前でお礼を言って車を降りた。

おわりに


満足のいく形とは言えなかったが念願の引馬峠越えが終わった。

結果的にいくつかの新しい疑問点と課題が残ることになった。どうやら引馬峠の夢はたやすくは終わりそうもない。簡単に整理しておきたい。

  • 「←ヒノエマタ」「↑タシロ」の古い切り付けは見当たらなかった。地形図を記憶に重ね合わせて場所を特定すると以前引馬峠と考えていたところは孫兵山衛寄りのピーク1918mではなかったのか。そうだとすれば、このあたりも、古くからの峠道だったことにならないか。
  • オリジナルのカヤデの引馬峠越えの道があった火打石沢沿いの道はいまはどうなっているのか。橋本太郎氏の記録は残雪期のものであり、無雪期のルートの様子はうかがうことが出来ない。
  • 檜枝岐・台倉高山の古い分岐点からの下降路があれほど不明だったのは何故だったのか。
  • 最後の下降路の尾根に復帰するときに出合った杣道は何だったのか。杓子小屋(檜枝岐の生活をささえた杓子作りの作業小屋)はこの辺りまで入っていたのだろうか。
  • 越ノ沢廃道から黒沢林道への本当に渡渉でよかったのか。越ノ沢橋は見つからなかったが流失してしまったのだろうか。

後日、読んだ『山人(やもうど)の賦V』は檜枝岐村の古い生活を伝えていて非常に興味深いものであった。この本と『奧鬼怒山地ー明神ヶ岳研究』の存在を教えていただいたWEBサイト『高原山探訪』のyoshi様とめんどうな転送手続きをしていただいた宇都宮図書館と海老名図書館に心よりお礼を申し述べたい。