奈良部山〜根本山〜氷室山〜岳ノ山(小戸川・大戸川周回) (2004年1月)

年月日:    2004年1月31日(土)〜2月1日(日)

初日行程:   小戸川左岸空き地(私有地)出発(7:30)〜 主尾根に上がる(8:45)〜 奈良部山山頂(11:20)〜 熊鷹山山頂(12:50)〜 十二山根本山神社(13:20)〜 根本山山頂(13:52)〜 黒坂石への分岐(14:30)〜 氷室山神社(15:07)〜 椀名条山への分岐(15:23)〜 幕営地(16:00)

2日目行程:  幕営地出発(8:00)〜 952.4mピーク(9:12)〜 東蓬莱山山頂(10:58)〜 愛宕山山頂(12:36)〜 岳ノ山山頂(13:45)〜 帰着(14:50)

安蘇の山について何も知識がなかった昨年秋、地図を見ていて、彦間川と旗川の間にある尾根上を延々と走る長い破線が目にとまった。この長い歩道を歩いてみたいと思ったが、往復はしたくない。舗装道路を歩いて戻ってくるのも嫌である。東隣の尾根に着目すると、こちらも破線が延々と記されている。この瞬間に隣り合う2つの尾根を歩いて周回するという考えが頭に宿ってしまった。周回しようとすれば氷室山まで行かなければならない。ついでだから根本山にも行きたい。これで登る山が自動的に決定。一泊二日では全ての歩道を歩き通すことは不可能なので、最も短い周回とし、起点を小戸川と大戸川の合流点がある作原とした。作原から黒沢林道を歩いて小戸川西側の尾根に上がり、奈良部山−丸岩岳−熊鷹山−十二山根元山−氷室山を経由して大戸川東側尾根を歩き、最後は807.2mピークから大戸川に下ろうというものである。

私は道無き藪歩きや岩場は好きではない。廃れて自然に回帰しつつある道を辿るのが好きなので、徹底して歩道歩きに徹しようとしたら必然的にこのコースになってしまう。野峰だけはどうしても周回コースから外れてしまうので、安蘇の様子見を兼ねて前年12月に登っておいた。

冬の野営は経験が無いので、この周回歩行は早春に実行しようと思っていた。ところが、金曜日に見た週末の天気予報によれば、等圧線の間隔が広がり土日にかけて関東地方は穏かな天候に恵まれるとのこと。一月に入ってから降雪が少なく、栃木県北部を除いて山には雪がほとんど残っていない。かねて暖めていた計画を試すのに絶好の機会であると思われた。夜遅く、国土地理院の地図をダウンロードして周回コースの地図を準備し、寝不足状態で田沼町作原に向かった。

唯一の懸念点は、どこまで行っても旗川沿いに民家が有り、一晩車を停めて怪しまれないような場所がみつからないのではないかということであった。もちろん、地元の方の了承を得て停めさせてもらえればそれに越したことはないが、朝早いのであまりウロウロしたくない。車を走らせながら地図を見ていたので、初めての場所で黒沢林道の入り口が良く判らず、蓬山フィッシングの裏の道が黒沢林道であると思ってしまった。蓬山フィッシングを過ぎ小戸方面に向かって少し進むと左側に空き地がある。少し目立つがその先しばらくは民家がなさそうに思えたので怪しまれることはあるまいと思い、ここに車を置くことにした。この甘い考えが翌日騒動を引き起こす。

≪ 初日行動記録 ≫

駐車地から蓬山フィッシングまで戻って、裏手の林道に進入。ところがこの道は杉林の中で消えてしまった。その先には細い踏み跡が続いていたのでそのまま進んでいったら沢沿いの急斜面に出た。林道跡にしてはおかしいなと思いながらさらに進むと民家の裏手に出た。嫌な予感が的中。犬が吠え始めた。ぐずぐずしていると不審者として山狩りでもされかねないので逃げるように踏み跡を辿って沢沿いに進む。私は犬に吠えられると頭に血が上る。出だしから最悪である。竹林の中の墓地を抜け、杉が植林された急な斜面に取り付き真っ直ぐ登っていった。民家からかなり離れてこちらの物音は絶対に聞こえないはずだが、犬は相変わらず吠えている。一本調子で登っていく間、30分くらい吠えまくっていた。これが翌日の騒動の引き金になったのかもしれない。

支尾根に上がり主尾根を目指して進むと、最近大規模に伐採・植林した開けた急斜面に出たので、急斜面を横切り660mピークの北側の主尾根鞍部に抜けた。東南に見える岳ノ山の姿が美しい。尾根上に明瞭な道はないが、藪もない。638mピークを越えたところの鞍部まで重機が上がってきており、材木の積込みを行っていた。

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朝日を浴びる岳ノ山(中央左)と大鳥屋山  08:55


天気予報では穏かに晴れ上がり気温が上がるということであったが、風花が舞い、とても寒い。送電線(新栃木幹線)鉄塔で野峰を眺めながら一休み。

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野峰  09:34


送電線鉄塔から先は道があるようで無い。だんだん急峻な岩場が多くなる。目の前に現れた岩場を前にしてしばし躊躇する。つかまるものが少なくやっとよじ登ったが、ひやひやものであった。本当にこれが旧歩道なのか?ひょっとしたら西側を巻くことができたのかもしれない。いずれにしても私の嫌いな場所で、帰りに通る気にはなれない。

奈良部山と思しき山体を目前にして、崖で先に進めなくなる。右も左も急な岩場だが、左の斜面を少し下って巻けば鞍部に抜けられそうである。ひやひやしながら左の岩場の巻き道らしきところに降り立ったが、その先に足場が無く進めない。良く見るといたるところに踏み跡らしきものがあって紛らわしい。野生のシカまでもがここでは右往左往するらしい。当たりが一本しかないくじを引いているようなものである。難所を抜け、ほっとして腰を下ろして振り返ると、岩場に黄色いペンキで「昌子」と書いてある。その左側の文字は明瞭ではなかったが、これは1990年代に安蘇をはじめとして北関東一円の山々を犯しまくった悪名高き「井上昌子」の所業に相違ない。どうせ残すならもう少し芸術性のあるものをお願いしたいね。もっとも、最近私が行く先々にやたらにつけてある目障りな赤テープに較べれば気に障らないが。

奈良部山の最後の登りは道形こそ無いが、潅木が左右にどいて、「さあ、どうぞ。」と誘っているかのよう。

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奈良部山山頂  11:24

岩場を巻いたり這い登ったりしながら尾根を北上し、やっと辿りついた。奈良部山までの登りが今回試した周回コースで最もタフな区間である。

根本山詣では黒沢の根本参道を辿るのが主だったようだが、作原方面から詣でる人は奈良部山を経由して尾根道を辿ったのであろう。地図上には南から延々と尾根上に破線が記されているが、現在は登山道として用いられていない。


奈良部山の山頂はもっと開けた場所かと思っていた。狭いし眺望も良くない。なにより風が強くて寒い。あまりゆっくりせず先に進む。何日か前に丸岩岳経由で訪れた人の足跡が雪上に残されていた。左側に石鴨林道の終点が見えたが、ここは消えかけた旧歩道歩きにこだわった。奈良部山から丸岩岳に向かう旧歩道は尾根上の起伏を忠実に辿っているので結構疲れる。前回丸岩岳に登った時に較べれば雪が少ないので、作原分岐と呼ばれているらしい神様まで順調に進んだ。

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作原分岐  12:16


丸岩岳から奈良部山まで往復する人がたまにいるらしいが、途中まで石鴨林道を歩けるため、尾根上の旧道は廃道状態である。

既に正午を過ぎて、一日の行動時間の半分を過ぎている。少し遅れ気味なので、登ったことがある丸岩岳をパスして、丸岩岳北東斜面を巻いて熊鷹山に向かった。おそらくこちらが正式な根本山参道であろう。当日、熊鷹山から丸岩岳に向かった人が一人だけいたらしい。このぶんなら、この先も静かな雰囲気なのかなと期待していたら、熊鷹山の展望台の上に人影発見。じきに小戸川奥から登ってくる登山道と出会い、鳥居を潜って山頂に至った。

山頂には展望台が在って360度の眺望は素晴らしいが、全部で10名ほどのハイカーで賑わっていたのでくつろげない。展望台に居た方のEOSdigital のシャッターを押してあげて、ろくに写真も撮らずに十二山に向かった。

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熊鷹山から見る日光方面  12:57


氷室山に向かう分岐点となるはずのピークには歩道も水準点も山名板も無い。てっきりここが十二山だと思っていただけに、不思議に思いながら根本山に向かった。氷室山への分岐では強い北風が吹き抜けて木々が轟々とうなっていた。寒い。幸い、熊鷹山から根元山に向かう登山道は稜線の南側斜面につけられており、北風に当たらず助かる。根本山の北東側斜面は日陰で積雪していてとても寒そう。

根本山神社に至るまでに計3組のハイカーとすれ違った。時間的に私がこの日最後の登山客であったろう。神社と思しき場所は粗末な小屋が崩れて放置されたままになっており、鳥居と比較的最近立てられた碑を見てやっと神社と認識できる状態である。

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十二山根本山神社  13:25

根本山神社は近代に入って衰退著しい山岳信仰の典型である。粗末な建物の崩壊した様が侘しい。以下は神社にあった碑文からの抜粋。

十二山根本山神社は修験道の霊地として開かれ、大山祗神を祀る。明和八年(1771年)に小戸祠が建てられたのを始まりとして、最盛期には木造拝殿があり、明治から昭和初期にかけて祀職永澤宗二郎親子が居住した。文化三年(1806年)に薬師如来とこれを護る十二神将を納めて以来、十二山と呼ぶ。

根本山と十二山は一体と考えたほうが良さそうだ。


詣でる人が多いのだから奥にはさぞ立派な社があるはずと思い、鳥居を潜って先に進む。道は山の高みには向かわず南側斜面の植林の中を高低差無く続く。どこまでいっても山に上がる気配も無ければ社も見えてこない。雪上の足跡も2人分しかない。おかしいなと思っていたら根本山の西側まで行ってしまった。西側から戻る方向で山頂へ。

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根本山山頂

鳥居近くにあった粗末な神様が根本山神社であるとは思わず、高いところに立派な社でもあるのだろうと期待して辿り着いた最高点には主図根があるのみ。昔の根本山神社参拝客にとって山頂を踏むことは意味がなかったのだろう。山頂に来る人が増えたのは登山ブーム以降のようで、稜線上の道は太くない。


尾根を歩いて神社に復帰し来た道を引き返す。氷室山への分岐は相変わらず風が吹き付けて寒い。尾根の北側にあるので積雪しており、この季節に歩く人は稀なようで足跡は皆無。疲労の溜まった右足首に一抹の不安を抱えながらも氷室山に進路をとる。

尾根上の道はピークを避けてついているので歩きやすい。道は概ね明瞭で、丁目石が旧参道であることを物語る。積雪は予想より少ない。南側斜面は風裏になって静かだ。これならば幕営する場所も確保できるであろう。

北側の谷伝いに黒坂石方面から上がってくる道との合流点で、北側の視界が開けている。袈裟丸山も庚申山も北西風にさらされて降雪している様子が見えた。

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男体山(手前は半月山)  14:35
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三俣山 〜 社山
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皇海山、庚申山、中倉山方面
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袈裟丸山


道は標高1154.2mピークの北側を巻いている。宝生山方面と書かれている案内があるが、その名前が1154.2mピークのことととは知らず通過。進路を北東から北に変えるところで南東から上がってくる参道と合流するはずだが、何の案内も無い。分岐点を確認できぬまま北上し、道が急に広がったと思ったらそこが氷室山神社だった。

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氷室山神社  15:12

神社名は「正一位氷室大神」とある。以下は葛生町のHPからの引用。

文政12年(約170年前)江戸の大火の中、「あそのあかべ」と名のる天狗のような大男が現れ、下野の国の領主の屋敷の火を鎮火させました。調べた結果「氷室のてんぐ様」であろうということになり、霊験あらたかな神とおぼしめされ、朝廷より正一位氷室山神社の称号が贈られた。


南斜面が整地され、御神木に囲まれて厳かな雰囲気。今も登拝する人がいて、木村のかきもちが2箱供えてあった。私もプチあんぱんを供えて拝む。はて、氷室山の山頂はどこなのか?地図に三角点が記されていないので、神社裏の高みが山頂かと思ったが道は無い。ご神木に不敬な輩が打ちつけた登拝記念のプレートがあるが、山頂への案内は無い。しばらく北に向かって歩道を辿ってみたが、何もない。椀名条山への分岐から引き返す。

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椀名条山への分岐  15:28


引き返す途中、東側の谷の斜面が草原状になっているのが見える。ほんのまばらに檜が生えているだけだが、明らかに植林された跡である。防護柵を設けなかったがためにシカに喰われてほぼ全滅し放置されたままになっているのである。日陰には幾筋ものシカの足跡があった。

念のために神社裏の高みに登ってみたが、山頂を示すものは無い。氷室山も十二山根本山と同様、ご神体である山体そのものを表すのであって、どこが頂上であるかは意味がないようだ。道路地図によっては宝生山を氷室山の山頂としているが、神社との位置関係からみると適切とは思えない。

左に参道が分岐し、田沼町と葛生町の境界尾根に向かう。地図とにらめっこしながら南下し、分岐点と思われる場所から眼前のピークの北東斜面に進入。雪上にはシカの足跡しか無いが、自然林の中に杉並木が現れ、かつて作原と秋山から氷室山詣でに用いられた参道を辿っていることを確信。

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氷室山神社参拝道の杉並木  15:42
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献灯  15:46


道形はしっかりしていて、今でも使われているかのようである。現在は一部の物好きを除いてこの道を辿る人はいないようだが、凍てついた山陰にひっそりと往時の面影を残す。壊れた石燈籠のような遺物には「再建者 大字作原横塚茂十郎 大字秋山小平徳三郎」と彫られている。

いよいよ長い尾根下りの始まりである。下りの尾根に入って一日目の歩行を終了するつもりであったので予定通り。あとは泊まる場所を探すだけ。北西からの風が強いので風裏の東南斜面を探して進む。下りに入って最初のピーク(標高約1,045mピーク)を過ぎて、シカ糞が少なくて落ち葉が積もった緩い斜面を見つけた。

平坦な場所がありそうで無い。落ち葉をかき集めて平坦にしたつもりだったが、ずり滑ってテントの片側に体が寄ってしまう。移動するのが面倒だったのでそのまま我慢したが、寝心地が悪かった。

疲れて体が冷え切っていた。家に現在位置を知らせ、食事を済ませて使い捨てカイロをつけて寝袋にもぐり込んだ。しかし、今までテントの中で眠れたためしがない。キャンプが楽しいという人の感覚をどうしても理解できない。轟々という風音を聞きたくないのでラジオを聞きながら時間の過ぎるのを待った。風は夜半過ぎに収まり、静寂が訪れた。月夜で明るい。残雪が白く闇に浮かび上がる。標高が高いので遠く南側の街明かりが一本の水平な帯になって輝く。満天の星を眺めるのは悪くないが、翌朝は冷え込みが厳しいであろう。テントの中も氷点下なので結露した水蒸気が霜になっていた。

≪ 二日目行動記録 ≫

使い捨てカイロを計4個併用して寒い夜を切り抜けた。2〜3時間は眠ったらしい。2日目は穏かに晴れ上がって最高の登山日和である。テントの中の霜をバンバン叩き落として出発の準備。

ほぼ東に向かってピークを下るとピーク北東を巻いてきた旧参道に復帰する。旧参道の保存状態は良く、最終目的地までできるだけ楽に辿り着けるように徹底してピークを巻いてつけられており、シカ道並みに合理的。モミの木が生えるなだらかな1030mピークまでは岩場もあるが危険な場所は無い。適当に旧参道を辿ったり稜線を辿ったりして進んだ。

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1,030mピーク  08:53
炭焼きが行われていたことを物語る。


1030mピークから広い尾根上を南に進み、次の小高い植林地帯で進路を東南東に変えて尾根を下る。道が不明瞭になるので、この尾根の選択が2日目で最も判りにくい場所である。間違って南東の尾根を下ってしまった。すぐに気づいて隣の尾根に移り、参道に復帰。赤テープの主はもっと下まで行ってから間違いに気づいたようである。目障りだけならまだしも迷惑である。

952.4mピーク(当時の地形図には陣地なる名称の表示はなかった。)は鳥獣保護区(シカとイノシシを除く)の表示以外何もない。植林地の端にある三等三角点で小休憩して尾根を南下。952.4mピークから下っていくと、標高880m付近だったと思うが、東に派生する自然林の支尾根を一列の杉並木が下っていく場所がある。これは地図には記されていない参道の一つに違いない。ここから南側の歩道は細く不明瞭なところが多い。

ダウンロードして部分的にプリントアウトした地図を見ているので、分岐点がある標高807.2mピークまでの距離感がつかめず、952.4mピークからとても遠く感じられた。後で地図で確認したら約3kmある。860m級のなだらかな植林地を南下し、次の細い830m級ピークまで行って、ようやく東西に長い標高807.2mピークを視界にとらえた。そのさらに先(南)にある送電線が目印となる。この辺りから見た尾出山の姿がとても美しい。

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尾出山  10:28


歩道は807.2mピークを迂回して西側の檜の植林地帯を進む。道が山頂から遠ざかるので、道をはずれて暗い植林地の中を枯れ枝を払いながら登り尾根上に出た。このため、当初下ることを考えていた大戸川への下降路の分岐は確認せず。

一応三角点でも確認しておこうかと思い、明るくポカポカしたミズナラ林を進むと青い山名板らしきものが見えてきた。山名がついているとは知らなかった。SHCカワスミと書かれた山名板の日付は2004年1月31日。前日に掛けられたばかりであった。おなじみR.K.氏の山名板もある。

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東蓬莱山・標高807.2m  11:03

大戸川には約1,200年前の男体山開山で知られる勝道上人が開いた霊場の蓬莱山がある。これにちなんだ命名らしい。近くにある祠は崩壊している。

すぐ南に東電の送電線鉄塔があるので、巡視路を使えばアクセスは容易であろう。


当初の計画ではここから大戸川側に下山するつもりであったが、前日見た岳ノ山が気になり、時間・体力に余裕があるためそのまま尾根を南下。東蓬莱山の東南側斜面では間伐作業中でチェーンソーの音が聞こえてきた。東蓬莱山から南南東に尾根を歩き、送電線鉄塔を過ぎ、巡視路らしき明瞭な道に惑わされないようにしてさらに尾根を辿る。鬱蒼とした植林地帯の中に広く深く抉れた道跡が横たわる。重機によってつけられたものではない。おそらくは昔、馬に荷車を引かせていた頃の名残と思われる。

ここでつい最近捨てられたと見られるカップ麺容器、割り箸、スープ袋を発見。ただ放置したというより、食った後に当たり前のように投げつけたという感じだった。わざわざ暗い植林地帯の中で一人でカップ麺を食う奴とはいったいどんな輩なのだろう。ゴミを回収。秋山側に下る旧参道らしき抉れた道跡と別れて、尾根上を南へ進む。ここから先にもしつこく赤いビニルテープがついている。こいつもゴミだ。カップ麺容器を捨てる奴並みに性質が悪い。

地図上は愛宕山までの尾根上に道が記されていないが、里山なので踏み跡があり藪も無く歩くのに支障はない。愛宕山への登りにはスズタケが繁茂し、山頂付近はアズマネザサが生えていて、やっと低山帯に下りてきたという感じがする。

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愛宕山山頂  12:41


最近測量が行われたようだが、すぐそばの三角点を直接測量に用いてはいないらしい。三角点は昔の測量時に立てられた木組の下で藪に埋もれていた。

三角点の東側に碑があり、秋山を向いた側に絵が彫りこまれている。これは勝軍地蔵の絵なのだろうか。「享保十三 戊申歳」「正月吉祥目」「秋山村中」とある。1728年の建立ということか。彫った人の落款らしきものも残っている。

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将軍地蔵碑  12:50

以下はサンケイ文化センターのHPに掲載されていた八木透教授の連載記事からの引用。

愛宕信仰は京都市内の北西にある愛宕山に始まり、早くに神仏習合をとげ、中世以降は勝軍地蔵がその本地仏として崇敬されるようになった。愛宕信仰は愛宕山に集まった多くの修験者たちによって各地に広められ、民間では火伏せの神、また境界を守る塞の神として広く信仰されている。


山頂の南西側が雑木林になっている。山の名前から、てっきり愛宕神社があるものと想像していた。しかし、山名板すら無い。廃れてしまった江戸時代の愛宕山信仰の遺物が残されているだけである。井上昌子に遭わなかっただけでも良しとすべきか?

愛宕山から岳ノ山方面に緩やかな尾根を下り、基幹林道・前日光線の峠にぶつかる。切り通しを下って道路を横切り、対面にあった林道支線を少し進んで再び連絡尾根に上がった。こちらにも一応踏み跡があり、最初のピークを西側に巻いて檜の植林された尾根を下っていく。これは地図上に記された破線に相違ない。一応、下降路を確保できた。

疲労のせいかそれとも寝不足のせいか登りがきつく感じられる。水も残り少ない。時刻も正午を過ぎている。それでも、せっかく天気の良い日に近くまで来ているのだからと思い、岳ノ山に登ってみた。

岳ノ山の北側斜面は岩場こそ無いが傾斜がきつく、つかまる木も少ない。明瞭な登山道はなく、いたるところ乾いた土壌がむき出しである。急登後、檜林の尾根を南東に進んで山頂へ。

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岳ノ山から見る北北西方向の眺め  13:51


岳ノ山の神様は根本山神社の系列らしい。神様の向きから考えて、秋山側の住民が祀っているようである。最後の水を飲み干して往路を戻って鞍部に復帰。

鞍部から先ほど見つけておいた廃道を辿る。数十年使われた形跡が無い、広くて深く抉れた道跡である。枝尾根の上をうねうねと走っているので、人間が歩くためではなく、馬に荷車を引かせるために作られた道のようである。すれ違うことができるように複線になっている場所もある。廃道は小さい沢沿いの林道に接続する。この沢は近隣住民の水源になっている。

大戸川に架かる木製の橋を渡ったところの近くにパトカーが停まっていた。このときは、駐在所があるのかと思った。舗装道路を車を置いた場所に向かって歩いていくと、民家の犬が激しく吠え出した。今回の山歩きは犬に吠えられて始まり犬に吠えられて終わるのかと思ったらさらに落ちがついた。横にすっとパトカーがやってきて、警官が「あそこに車を停めた人かな?」と問う。その瞬間、なんとなく状況が察知できた。不審な車が置いてあったので前日から噂になっていたらしい。翌日になっても停めてあるので、「山の中で首吊りをしているのではないか。山狩りでもしなければ。」と心配した住民が警察に通報。警察がナンバーから自宅を割り出し、家内に電話を入れて私が登山中であることを知り、下山路で長いこと私を待っていたのである。とんだ迷惑をおかけしてしまった。携帯電話にも掛けたらしいのだが、あいにくバッテリー切れでつながらなかったのだ。そんな騒ぎになっているとはつゆ知らず、呑気に尾根歩きを楽しんでいたのだからおめでたい。

生まれて初めてパトカーに乗せられ、車を停めた場所まで数百m送って頂いた。よって、厳密には周回達成していないのである。警官はとても感じの良い方で、免許証を確認して、「今後は近くの家か駐在所に一声かけておいてください。」と諭して解放してくれた。悪事を働いたわけではないが、自分の軽率な行動が住民や警察の方々にご迷惑をお掛けしてしまった。この場を借りてお詫び申し上げます。

2日連続の寝不足で、帰りの車の運転中に猛烈な眠気に襲われた。事故を起こしたら今度こそ警察のお世話になってしまう。ゴールド免許が泣くというものだ。ほっぺたをひっぱたいたり頭を殴ったりしてもマイクロスリープが襲ってくる。我慢できずに途中のコンビニの駐車場で仮眠。やっぱり遠出は向かない。

とんだハプニングがあったけれども、尾根上の長い破線路、特に氷室山神社詣での旧参道を辿れたのが嬉しい。予想以上に私の好みに合ったコースで、2日間安定した天気に恵まれ、これまでで最も充実した楽しい山歩きとなった。氷室山神社詣での旧参道は実質的に廃道状態だが、危険な場所は無く辿るのは容易である。静かな古道歩きのコースとしてお薦めである。