南東尾根経由で平五郎山(2004年5月)

年月日:    2004.05.15(土)

行程:     楡ノ木沢林道ゲート前出発(05:50)〜 林道から逸れて楡ノ木沢沿いに進む(06:24)〜 南東尾根取り付き(06:43)〜 山頂(08:23 - 09:10)〜 尾根末端に降下(10:25)〜 帰着(11:33)

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関連記録@ 2004-09-18 引馬峠考−峠への道を辿る

関連記録A 2004-10-16 女夫渕〜引馬峠〜孫兵衛山〜黒岩山〜鬼怒沼周回

またしても土曜日の天気がよろしい。前週で春の藪歩きを終了し登山道歩きに切り替えるつもりであったが、大勢の登山客がいる場所に行くのが億劫だ。家を出たもののどこに行くか決めかねていたが、マダニにビビって逃げ戻った平五郎山がやっぱり気になる。栗山村は遠いなぁと思いながらも、一度行ってみれば次々に興味が湧くというもの。結局2週連続で平五郎山に挑むことに決めた。

平五郎山に興味を抱いたのはかつて川俣から桧枝岐に抜けるのに使用されたという引馬峠の存在を知ったのがきっかけであった。名前が引馬だから馬を引いて通ったということか?会津西街道の急峻な大内峠を越えて実際に馬が会津藩の江戸廻米を運んだことを考えれば不可能ではないだろう。しかし、峠の場所は判るが、川俣から桧枝岐までの峠道がどこにどうついていたのか地図を見てもさっぱり理解できない。無砂谷からナガフセリ沢を詰めれば引馬峠に上がれるはずだが、そもそも無砂谷沿いに道を作るのは非現実的。平五郎山のある長い尾根上に道があったとしても途中に宿場が無いので距離が長すぎる。本当に昔に人がこんな山奥の峠越えをしたのか?桧枝岐と川俣の間で交易があったとはとても思えないし、交通量から考えて峠道を建設・維持するのは理屈にあわない。資料を調べていないので引馬峠に関しては謎だらけで、平五郎山に登れば何らかの手がかりがあるのではないかと思ったのである。

もう一つ興味を抱いた理由は平家落人の伝説である。女夫淵伝説によれば中納言は中将姫を探して平五郎山・引馬峠を越えて黒沢に抜けたのだとか。中納言と中将姫の話は史実ではないにせよ、鎌倉時代に人が実際にこれらの山に入り込んでいたということであろう。昔々に長い藪尾根を縦走し沢を下ったなんて物理的に不可能のように思えるのだが、人間は自分の常識・能力を超える事象を否定しがちだ。とにかくどんな所なのか自分の目で確かめてみたかった。

国道461号から121号に入り東武ワールドスクェアを過ぎた辺りで、左からオフロード車が入ってきたため、ブレーキを踏んで減速。「朝4時台で他に車が走っていないのに他人にブレーキ踏ませるとはなんだ。どうしてせまってくる車が通り過ぎるまで待てないんだ?」という気持ちがあってやや車間距離が詰まった。すると相手が逆ギレを起こし、突然ブレーキを踏むわ蛇行するわで完全にイカレテいる。アルコールが抜けていないんじゃないか?早朝から気分を損ねたのでこちらも手まねでバーカとやりかえしたら、赤信号で下品なオヤジが車から飛び出してきて自車のドアを開け、「なんだこの野郎。ふざけんな、この野郎。出て来い!この野郎!」の連発。こちら若造風で勝てるとでも思ったか虚勢を張っているご様子。「やかましい!ブレーキ踏ませて入っておいて何言ってんだ。信号青だ。早く車出せ!このバカ!」と一喝したらわめきながらも素直に戻っていった。元々血の気が多いのだけれども、バカを相手にして自分の品格の無さを露呈したみたいで一日中とても気分が悪かった。反省。

今回は長い尾根歩きにこだわらず、一番確実と思われるルートを選択。標高1,230mまで楡ノ木沢林道を歩き、楡ノ木沢に沿って北東に進み一本調子の尾根を辿って山頂に至り、帰りは前回撤退した長い尾根を下って周回しようというものである。本日はマダニ対策として、いつも愛用している超安物のポリエステル製のジャケットを最初から着込んで行くこととした。表面がツルツルしているので上半身にマダニが付くのを防ぐことができる。あとは汗拭きタオルを首に巻き、まめにタオルを取って確認すれば襟からマダニが侵入するのを防ぐことができるはず。この時期にこの格好で山を登ったら発汗しすぎてバテてしまう。しかし、当日朝の気温は3℃で道端の草の葉にうっすらと霜が降りるくらい冷え込んでいたために、マダニ対策をした藪歩きが可能であった。マダニ対策は上半身だけで十分。マダニは地面すれすれには居ないので、いつも通り嫌いなスパッツは着用しない。

楡ノ木沢林道ゲートは閉じられて丸太も置いてある。当然進入はできないものだと思って林道を歩いていたら山菜採りらしき3人が乗り込んだ軽自動車が走っていった。ゲートの横に車が通れるくらいのスペースがあるのである。

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楡ノ木沢林道ゲート(帰りに撮影)


道はあまり荒れておらず、新緑の中を沢音を聞きながら順調に進む。何度か折れ曲がって沢沿いから尾根上に上がり、あとは平五郎山の山体に向けて真っ直ぐ北に向かう。左にカーブするところで、さきほど追い抜いていった車を含め2台が停まっていた。その先は崩れて通行できないのかもしれない。もう一台の車は茨城ナンバーであった。茨城ナンバーの車が栃木のこんなマイナーな山奥に朝早くいるということは、山菜採りではなく登山目的であろうと推測。もしそうだとすれば藪山で初めて人と遭遇することになりそうである。

右側の楡ノ木沢に沿って進めるという確証はなかった。地図を見ると右岸沿いに等高線の幅が広がっているのでなんとなく歩けそうだなと思っていただけで、もし歩きにくかったら最初に現れる細尾根に取り付き真っ直ぐ北上するつもりだった。

最初は沢沿いのやや急な斜面に踏み跡があるだけである。昔は立派に整備された林道があったことを伺わせる地形が部分的に残されているが、ほとんどは法面崩壊や路肩崩壊で消失し樹木に覆われ完全に自然に回帰している。とくに楡ノ木沢右岸に小さい沢が切れ込む場所ではかつて道路があったことなど全く想像できない。(帰宅してから所持している古い道路地図を見たところ、楡ノ木沢右岸沿いに林道の支線が記されていた。平五郎山に登った翌週、塩那道路の未整備区間を自然に回帰させることが正式決定された。登山道として整備されないのであればいずれは楡ノ木沢の林道支線のように跡形も無く消えてしまうことであろう。)

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林道跡 06:26


当日人が歩いた形跡はなく、入山者がいるとしても自分が目指す尾根にはいないことになる。踏み跡は3つの支沢を越えて目指す尾根の先端に至るまで続いていた。

その先に続いているのかどうかは確認していない。登山者のつけた踏み跡ではないだろう。カラマツが植林されている場所があるし、少ないながらもコゴミやウドが生えていたので、林業関係者や山菜採りが歩く道と思われる。

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取り付き地点(帰りに撮影)


尾根の先端は広葉樹林にまばらなクマイザサの林床で、勾配が緩く歩き易い。尾根に上がってすぐにマダニが数匹くっついた。居た居た!その存在を予期していれば対処できるのでハチよりましだ。笹の丈が低いこともあってズボンにしかくっついていない。時々立ち止まってズボンをよく見て、ダニが這っていたら指でピンピンはじき落とす。

植林されていない自然の林だが過去に人間が関与した形跡がある。尾根に取り付いた時点では気づかなかったが、かつての道の跡(踏み跡程度ではなく、幅1m程度の道形)を部分的に認めることができ、大木を伐採したり倒木を鋸で切除した跡が残っている。切り口の朽ちた状態、道の消滅度、成長の遅いシャクナゲの育ち具合から想像するに、使われなくなって数十年は経過しているらしい。目にしている道跡が昔の峠道であるとは思えないのだが、廃道歩きの趣味があるので古い道跡の発見は収穫であった。尾根には目印の類が一切無い。登山者は全て西隣の尾根に取り付いてしまうらしく、自分が登っている尾根を辿った登山者はいないらしい。

標高1,400m付近にアズマシャクナゲの群生地がある。

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10:01


シャクナゲ帯を過ぎるとチシマザサが現れる。最初は密度も丈も低く歩き易いが、ここでもマダニが付くのでしょっちゅう立ち止まってマダニチェックをしなければならず、いつもに較べて登るのに時間がかかる。登っていく間、右側に1,529mピークと1,594mピークが見えるので現在位置を把握できる。徐々に笹の丈も密度も高くなり、道跡を全く認識できなくなる。特に1,600m辺りの幾つかの尾根が合わさる緩い斜面では背丈を超えるチシマザサの中を進むことになる。こういう場所ではなるべく獣が通った場所を避けて、且つ首筋に笹の葉が触れないように掻き分けて進んだ。

標高1,630m付近は3つの尾根が派生する、広くなだらか場所である。ご覧の通り、ダケカンバや針葉樹の巨木がまばらに生えている明るい林である。この辺りが最もチシマザサの藪が濃いが、丈は2m程度で掻き分けるのは容易。なるべく獣道を避けるようにして藪中を進んだが、それでもマダニが数匹くっついた。

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標高1,650mの再び尾根が狭まる場所で初めて赤布を目にする。雪がわずかに残っていて、残雪期に歩いた1人の足跡が雪上の汚れのムラとなって残っていた。これより先は雪が消えたばかりで、マダニにはお目にかからなかった。

山頂直下の斜面を登る途中で見える、どっしりと屏風のように構える山々が印象に残った。今まで名前を知ってはいてもその山容を見たことが無く、地図を見ても今ひとつ興味が湧かなかった。実際にその姿を認識して、初めてこれらの山々の存在を意識するようになった。

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高薙山(左)〜根名草山(右) 08:11


平坦な尾根を進んで最後の50mを登ると山頂に至る。山頂は広く平坦。カモシカが1頭走り去った。ダケカンバやコメツガ・ネズコ・アオモリトドマツ等の疎林でそこそこ明るい雰囲気。チシマザサやクマイザサが生えているが藪というほどではない。

測量に用いた木製の台が放置されており、近くに発泡スチロール製の山名板が割れて落っこちていた。しかし、三角点が無い。この山名板の主は残雪期に訪れたのであろうと推察し、しばし周囲を捜索。北西側に十数m離れた場所に三等三角点を発見。近くのネズコらしき樹木の枝が張り出していて三角点がありそうな場所には見えない。

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平五郎山の山頂にて 08:38


山頂は常緑樹の鬱蒼とした林ではなく、山頂から少し北側に進むと東側に視界が開け無砂谷を眺めることができる。帰宅してから地図と見比べて、遠くに見える高い山が高原山であることをようやく特定できた。

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無砂谷、遠くに高原山 08:50


三角点を見つけたので、いよいよ本題に入る。わざわざこんな藪山に登ったのは山頂の石祠を見たいのと尾根伝いに道があったのかどうか確かめたいがため。空身で平坦な山頂の北の端まで行ってみたものの石祠が見つからない。三角点まで戻ってもう一度丹念に探し、発泡スチロール製の山名板が落ちていた場所の近くの木の根元にキノコ型の可愛い石祠を見つけた。苔むしていて古く見えるが、昭和57年の建立である。藤原の君島平五郎なる人物が同じ名前にちなんで祀ったらしい。年代が新しいので昔の道跡を探す期待は薄れてしまったが、かつて人が情念を込めて建立し今もなおひっそりと鎮座する遺物を見つけることができて満足である。

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山頂の神様 08:52


まだ朝8時台。山頂から引馬峠方面に向かってしばらく尾根を辿ってみようかとも思ったが、無砂谷沿いの林道も歩いてみたい。早朝はすっきりしていた空が次第に薄曇りになってきたので尾根探索はあきらめ、食事をして9時10分頃まで滞在して、山頂から引き返した。

帰りは標高1,650m地点から南西に向かい、前週マダニにびびって引き返した長い尾根を辿って川俣温泉に抜けるつもりであった。しかし、いざ下り始めてみて気が変わった。登ってきた時のマダニの密度から推定すると、下ろうとしている尾根はほぼ延々と笹藪が続きそうなので高度に関係なくマダニがうじゃうじゃ居そうである。あまり快適ではないように思われたので、予定を変更して登ってきた尾根に向けて下った。こちらは傾斜があるので笹を押し倒すように下ればマダニがあまりつかない。広い笹薮の斜面なので、目的の尾根に乗るためには標高1,600m地点まで進行方向をしっかりと見定めて下らなくてはならない。北東方向の標高1,594mピークを頼りに現在位置を把握して正確に尾根に乗った。もっとも、誤って左右の隣の尾根に進んでしまったとしても安全に楡ノ木沢に下れそうである。       

尾根末端に無事降下。結局、山中で誰にも遇うことはなかった。茨城ナンバーの車の持ち主は山菜採りに来たのかもしれない。林道に戻る途中の収穫は細いウド2本のみ。コゴミも生えているが、あまり上等ではない。しかも全て伸びきってしまっていた。まだ奥鬼怒のほんの一部を見ただけであるが、雪深い会津に較べると山菜が貧弱である。

時間がたっぷり余ったので無砂谷を目指して川俣湖北岸の林道を走って見た。よくもまあこんな人が住まない山奥まで多くの車が走ってくるものよ。全て山菜採りが目的のようだが、もともと山菜類の貧弱な地域なのでほとんど収穫は期待できまい。

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川俣湖岸の林道から 11:50


無砂谷に進入してもっとびっくり。狭く荒れた林道に何台もの車が入り込んでいた。途中に車を停めて無砂谷右岸側の林道を歩いていこうとしたが、橋の手前に陣取っている連中に会いたくないのであきらめた。ここを訪れるのは早朝に限る。

この後、馬坂沢経由で土呂部に抜け、満開のヤマツツジで赤く燃える日蔭牧場の丘を歩いてから帰路についた。

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日蔭牧場   14:59
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夫婦山 15:03


山野・史跡探訪の備忘録