元湯林道から二方鳥屋山へ (2004年5月)

年月日:2004.05.29(土)

行程: 元湯林道ゲート・標高約800m(8:58)〜 元湯林道終点・新大塩沢峠・標高1,050m(9:41)〜 1,212mピークの北側(10:30)〜 二方鳥屋山北側斜面の林道出合(11:30)〜 二方鳥屋山山頂(11:45)〜 元湯林道終点(13:50)〜 元湯林道ゲート(14:25)

6月1日のアユ釣り解禁まで残すところあとわずか。5月の最後の週末が2004年上期に山に行く最後の機会となる。30日(日曜日)は中学校の奉仕活動で山には行けない。土曜日(29日)はあまり天気が良くないとの予報であったが、崩れる心配はなさそうなので運動のために山歩きにでかけた。木々の葉が生い茂り見通しが利かない時期であるので、景色を楽しむというよりは探索気分で歩くこととし、元湯林道の峠から二方鳥屋山を目指した。

わざわざ元湯林道の峠から二方鳥屋山を目指す理由はただ一つ。会津西街道の脇街道が尾根上にあって二方鳥屋山をかすめて旧高原に抜けていたという推測を確かめてみたいがためである。できるだけ余計な登り下りを避けるためには尾頭峠から高原新田まで標高差の少ない尾根を一気に進むのが理屈にかなう。ただし、距離が長いので、一旦塩原に下りて一泊してから高原新田を目指す場合もあったと考えられる。実際に尾根を歩いて見分しこれらの関係を整理してみたいというの前年末からの関心事の一つであった。2003年11月に元湯林道峠から尾頭峠方面に尾根歩きをし、街道跡らしきものが存在することを確認済み。今回は反対側を探ろうというものである。

関谷に向かう時は高原山にガスがかかっていて雰囲気悪し。「本当にこんな日に藪尾根を歩くのか?」と思いながら箒川に沿って塩原温泉に向かうと、なんと青空が広がってきた。これで俄然ヤル気が出、予定通り元湯林道へ向かい前回と同様にゲート前に車を停めた。

車のドアを開けると、全山が蝉時雨に包まれていた。聞いたことの無いパターンの鳴声である。ヒグラシ(ケケケケケケケケ・・・・・)とツクツクホーシ(ツクツクホーシ、ツクツクホーシ、・・・・、ジーッ)を組合わせたような音で、ケケケケケケケケケケケケジーッというパターンである。正体は透明な羽を持つ小さなセミで枝の先の方にくっついていてよく見えない。エゾハルゼミであることは間違いなさそうであるが、まだ気温が上昇していない時間帯だからなのか、福島の故郷で聞く鳴き声(ミョーケー)とは違うパターンのように聞こえる。

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林道沿い植林地内のイノデ


路面の状態は良好。半年前と何ら変わったところは無い。今回は気温が高く日差しが強烈、木々の葉が繁って見通しが無い。この時期は故郷でもネマガリタケの筍採りやフキの葉採りに山に入る程度で、本格的に藪歩きをした経験がほとんど無いのであるが、単純な尾根歩きだし天気も良いので不安は感じなかった。

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元湯林道終点(帰りに撮影)


峠から藪に入ると古い道跡があった。マダニがいることを想定してジャケットを着込み汗拭きタオルを首に巻く。気温が高いので発汗するが、いつものように長い距離を歩く訳ではないし標高差も少ないので、このスタイルを貫く。

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峠から尾根を南進


道跡は1,110mピークを目指すのではなく山腹をほぼ水平に走っているので、旧街道跡ではないかという期待が膨らむ。植林されたやや傾斜がきつい場所で一旦は道形が消えてしまうのだが、1,110mピークを南に回りこんだ鞍部から再び広い明瞭な道形が続いている。この鞍部はスズタケにわずかにチシマザサが混じる。案の定、マダニがいるものの濃い笹藪ではないので余裕である。次の1,212mピークでは最初の約90mの登りは道がジグザグについており、勾配が緩くなると尾根上を真っ直ぐ進み、標高1,180m近くでピークを避けるために西側から1,212mピークの南側に回りこむ。なかなか良く設計されている。

尾根の西側はカラマツが植林されている。植林時期を示す標柱が無いものの、樹齢は30〜40年程度であろうか。全く手入れされていないため雑木が混じって自然林のような雰囲気である。道横には伐採されたブナの巨木の根が数多く残っているので、かつてこの尾根はブナの原生林に覆われていたと考えられる。

後日知った塩原ビジターセンターの資料によると、1,110mピークの南側の鞍部を大塩沢峠と呼び、元湯に続く道があったという。1,212mピークは地蔵山と呼ばれ、その南側が地蔵峠と呼ばれる。

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尾根上の廃道(帰りに撮影)
写真の場所は地蔵山(1,212mピーク)の南側にある。旧街道の地蔵峠はこの近くにあったらしい。


広く抉れた道に横たわる大木は道が放棄された後に自然に倒れたものであり、植林された年代よりもはるかに古いものである。伐採・植林作業のために作られた道ではなく、旧街道跡である可能性が高い。

1,212mピークの南側で尾根が狭まり、東側の赤川の広い谷の様子を伺える。ブナ、ミズナラ、カエデ類が鬱蒼と繁りミヤコザサに覆われた明るい緑の尾根を40mほどゆっくりと下る。道跡も明瞭で快適に進める。個人的には最高に位置づけたい雰囲気の尾根である。

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樹陰でひっそりと咲くヤマツツジ


次の登りでは尾根が急に広がる。ここも道跡を確認できるが笹がまばらなので適当に高みに向かって登っていけば良い。登り終えたところで南東から南西に90°進路を変え、広い尾根に向かう。尾根が広がるということは笹も深いということ。一部、尾根の東側にヒノキが植林されている場所では下生えが全く無い場所があるが、それ以外は一様に丈1.5〜1.7m程度のクマイザサ帯(2004年時はまだ巨大化したミヤコザサとの見分けができるほど知識が伴っていなかったので、ミヤコザサである可能性もある。)となる。ただし、進行を妨げるほどのしつこさはない。新しい笹の葉が広がりつつあるところであった。

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尾根上のクマイザサ帯


こんな場所でも抉れた昔の道跡を部分的に確認できるので、会津西街道の脇街道の跡であったとしても不思議ではない。道標や道租神でもあれば確証が得られるところだが、分岐の無い一本道なのでその類はあまり期待できない。

このような場所では道跡が不鮮明になるが、迷うような尾根ではないし、倒木の類も少ないので順調に進める。マダニも居るが、ザバザバ歩いているうちにとれてしまうらしく、スズタケの藪に較べれば快適。こんな調子が約1q続く。

再び尾根が狭まるところから先には広い道跡が見当たらない。良く確認しなかったが街道跡は途中で尾根を逸れて鶏頂開拓方面に向かっていると推測する。東側が若い植林でスズタケが繁茂するので、この尾根歩きで一番嫌らしい場所である。笹をひと掻きする度に顔にダニがくっついたような気がして気持ち悪い。スズタケ帯を過ぎてやや勾配が急になるとクマイザサの中に細い踏み跡を確認できる。眼前に二方鳥屋山の山体が迫り、いよいよ最後の登りかと思ったら、二方鳥屋山北側斜面に最近作られたばかりの作業道と出合った。

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鶏頂開拓方面から伸びる作業道
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ナラタケ


作業道は二方鳥屋山の北側の鞍部に至る。ここから尾根を南下して山頂を目指す。尾根上は笹類が少なく歩き易い。

本日は眺めを期待していなかったが、予想外に天気が良くて、かすんではいるものの遠方を確認できる。二方鳥屋山を跨ぐ防火帯らしきものによって視界が開け、限られた範囲ではあるが東に高原山、西に五十里湖を確認できる。

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二方鳥屋山から見る高原山


山頂には三等三角点と山部さんの山名板有り。

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二方鳥屋山三角点にて


日差しが強く気温が高いうえに多くのハエがまとわり付いてゆっくり佇む気になれない。少し下って木陰で昼食とした。マダニ対策をしていることもあって、全身汗でぐしょぐしょ。腹の具合が悪いし頭もちょっと痛い。ここまで汗をかくと想定していなかったので500mlのペットボトルを2本しか持ってきておらず、帰りに脱水症状になりはしないか少し心配になった。天候が変わるかもしれないので頂上滞在20分ほどで引き返す。

また同じ笹原を抜けるのが嫌で、作業道から尾根に入る場所でエアリアマップを広げて周回が可能かどうか思案。林道を辿って鶏頂開拓に向かえば大回りで10数km歩くことになる。今の体調では耐えられそうにない。覚悟を決めて尾根に進入。

帰りは基本的に下りであるものの、ちょっとした登りがつらい。それでもせっかく来たのだからと思い、帰りに1,212mピークと1,110mピークに登ってみた。1,212mピークはミヤコザサの林生で雰囲気が良い。一方、1,110mピークはスズタケが繁る不快なピークでマダニが多い。1,110mピークから右斜めに斜面を下れば元湯林道の峠のはずだがその気配が無い。北北東に進むべきところをいつのまにか西に向かう尾根を歩いていた。マダニが嫌なので戻るのが億劫になり、急な斜面を下って大塩沢側の廃道に降り、少し登り直す形で元湯林道の峠に帰着。

峠まで来ればもう安心。最後の水を飲み干して順調に林道を戻った。

那須の中の大倉山ではゴヨウツツジが満開だったそうだが、こちらで見た花はヤマツツジ数本と元湯林道の傍に一本だけ咲いていたクリンソウだけ。

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翌30日に資料を調べて整理した結果は以下の通り。

天和3年(1683年)の日光大地震によって壊滅大地震で藤原町の戸板山(葛老山?)が崩れ落ち男鹿川を堰き止めて旧五十里湖が出現。享保8年(1723年)に大雨で旧五十里湖が決壊し会津西街道が復旧するまでの間、会津西街道が完全に不通だった訳ではなく、2つの脇街道(代替ルート)が整備された。

古来より尾頭峠を経由する三依と上塩原の交易ルート(元尾頭道)があったが、地震で馬の背と呼ばれる尾根が崩れて不通となったため、代替ルートとして今尾頭道が整備された。今尾頭道は尾頭山(1265mピークのことか?)の中腹を通って今尾頭沢沿いに下り大道ヶ原経由で小滝宿に抜けていた。小滝宿から関谷宿に抜ける道も整備され、塩原が宿場として最も繁栄した時期であったらしい。ちなみに現存する尾頭峠の道跡は明治26年(1897年)に県道三依塩原道として整備されたもので、今尾頭道とは異なる。こちらは昭和30年代まで使用されていたらしい。V字に切れ込んだ尾頭峠はわざわざ掘削したものだという。

もう一つの代替ルートは尾頭峠から地蔵曽根(元湯林道終点に至る尾根の名称?)経由で高原宿(高原新田)に至る高原道〜赤川道である。高原道自体は太閤秀吉の時代から存在していたから、当時は大塩沢峠から一旦、元湯に降りて宿泊し、元湯から地蔵峠経由で高原宿に向かったであろう。天和3年(1683)日光大地震によって壊滅的な打撃を受けた元湯温泉の住民は他所に移っていった。移転先の一つが今の新湯で、新湯振興のために赤川沿いに高原新田に抜ける赤川道が整備された(道筋が現存しているらしい。)。江戸幕府への参勤交代時は尾頭峠の頂上より地蔵曽根伝いに塩原に降りて(元湯経由で新湯へ)、赤川道を辿って高原宿に至ったそうである(つまり現在の元湯と新湯の間も街道の一部だったことになる。)。会津西街道の復旧以降は急速に廃れ、文久2年(1862年)に高原新田が川治に移転することで街道としての役割を終えた。

上記の情報は主に下記の文献に拠る。

  @HP「日光山地から鬼怒のたより」 http://www2.ocn.ne.jp/~kouroku

  A「塩原の里物語」 発行:塩原町文化協会、 発売:随想舎

脇街道が尾根上にあったかどうかについて書かれた文献は見当たらないが、実際に尾根上に延々と続くしっかりした道跡を確認して、脇街道(高原道)の本体が上三依から高原宿まで尾根上の直通ルートであったと推測している。

後日、塩原ビジターセンターのHPで「平成16年度新緑ウォークW」の記録を見て、少なくとも尾頭峠から地蔵峠まで尾根上に横たわる広い道跡が会津西街道・高原道であったという推測が確かめられた。

山野・史跡探訪の備忘録