尾頭道探索(2004年8月)

年月日:    2004.08.11

行程:    こたき館裏手の尾根先端・標高約525m出発(09:37)〜倉下山尾根・標高約950mの鞍部(11:03)〜尾頭峠・標高約1,140m(11:44)〜22号鉄塔・標高約1,170m(12:12)〜尾頭トンネル東口・標高約810m(12:46)〜車に帰着(13:19)。 

関連記録@ 2006-06-17 尾頭道(三依側)を辿る
関連記録A 2009-05-30 上三依・熊野堂の尾頭道(江戸期)

那珂川のアユ釣りは一時期の絶好調期を過ぎて調子が下降気味。せっかくの夏期休暇であるし、久々に終日好天に恵まれるとの予報であったため、一日だけ山歩きに出かけることにした。とはいってもこの時期に登りたい山は無いので、登山ではなく廃道探索が目的である。

2003年11月に白倉山・三依山に登って尾頭道の存在を知ったのをきっかけに、塩原地区の尾根上に延々と横たわる古い道跡の正体が何であるのかが私の最大の関心事となった。それ以降二度に渡って、登山・尾根縦走をかねて会津西街道(高原道)の探索を行ったのであるが、この地域の街道に興味を持つきっかけとなった尾頭道は登山目的で辿る予定がなかったため探索を後回しにしていた。峠道ならば藪漕ぎすることはないであろうし、距離もたいしたことはないのでこのくそ暑い時期に歩くのに丁度良いと考えた。木陰を歩くので強い日差しを避けて快適に歩けるという目論みもあった。

早朝に行動開始できれば@塩原と三依を往復、若しくはA尾頭道を峠まで往復した後に三島道を訪ねることを考えていた。しかし、夜更かしとアユ釣りの疲れで朝早く起きることができず、予定より2時間以上遅れて自宅を出発。

尾頭道の起点らしき場所は7月に塩原に立ち寄った際に確認しておいた。こたき館横の元尾頭沢川に架かる橋を渡った突き当たりが尾頭峠近くから派生する倉下山尾根の先端であり、尾頭道の入り口である。ここを左に行けば和楽遊苑「源平和合の里」、右に行けば栃木県トラック協会の塩原保養研修所がある。現地に案内は皆無。良く見れば突き当たりから尾根上に向かう古い道形を認めることができる。

2003年に尾頭峠で道跡を見つけたとき、道跡がどこに向かって下っているのか地図を見てもさっぱり予測できなかった。倉下山の尾根の斜面は元尾頭沢側・今尾頭沢側共に出入りが激しく、傾斜も大変きつい。どう考えてもこの尾根に道を作るのは道理に合わないように思われるのだが、尾根先端に入り口があるということは急斜面に存在するのは間違いない。

こたき館裏手の尾根先端(標高約525m)から歩行開始。 最初は尾根の北側斜面を登っていくので暗く陰鬱な感じである。途中にポツンと三島家代々の墓石が建っているためであろうか、それとも小さな梅の木の畑があるためであろうか、最初だけ下草が刈ってあった。尾根上にかつては畑であったと思われる平坦な荒地があり、夏草が生い茂る。この辺りは明るく開けた場所であったため藪化が著しく道跡を辿りにくい場所である。尾頭道はこの平坦地をグルッと巻いて今尾頭沢側の斜面に向かう。尾根上の広い平坦地の縁に、鎌倉時代に塩原に草庵を結んだ平重盛の妹である妙雲禅尼ゆかりの碑がひっそりと建っている。古いものではないようであるが、何故ここに建っているのかは解らない。最初はここに草庵でもあったのかと思っていた。しかし、尾頭道をさらに奥に進んだ場所にもう一つある。鎌倉時代には現在の尾頭道は存在していなかったのに、何故にここに建てられているのか?ひょっとして妙雲禅尼は17世紀まで用いられた元尾頭道と何か関係があるのか?元尾頭道は元尾頭沢沿いにあったはずだが?

尾頭道は明治26年(1897年)に県道三依塩原道として建設され、昭和30年代までは使用されていたという。岩盤質でない場所ではかつての県道があったことなど想像できないほど法面が崩れてしまって原形を留めていない。道路脇からはるか上方まで法面の崩壊が徐々に進行していった様子が見てとれる。良く見ると比較的新しい足跡があった。自分と同じ趣味の御仁かそれともチタケ採りに尾頭峠に向かった人のものであろう。足跡の窪みをなぞることで崩れやすい斜面を楽に渡ることができた。

画像
10:19


倉下山尾根の今尾頭沢側の斜面は出入りが多く、小さく切れ込む枯れ沢を何度も何度も跨いでいく。狭い範囲にに4本も集中している場所もある。沢底は自然の浸食作用で形成されたようでツルッとしており、人工的に削られた跡は認められない。沢を跨ぐ場所にはかつては橋が架けられていたのであろうが、石積みや丸木等の遺物は全く残っていない。

今尾頭沢側の斜面の傾斜はきつい。きついというより、岩場がせり出したような場所が多い。尾頭道は、距離が長くなるのを度外視して極力起伏無しで一本調子で尾頭峠に至ることを基本的設計思想としていたようである。このため、急斜面だろうが岩場であろうがお構いなしに前に現れたものをガンガン削ってしまうという、気持ち良いくらいシンプルな作り方をしている。一見極めて乱暴なように見えるが、地形的に他にもっとまともなルートを設定し得ないのだかしかたない。

ダイナマイトで爆砕して建設したにも関わらず、道形が良く保存されている岩場の道幅は2mもない。足場がしっかりしているから恐怖を感じないが、もし足を踏み外したら転落死は確実と思われるような場所も少なくない。

画像
10:47


荷馬車が通ることができたとはとても思えないし、荷を積んだ馬がすれ違うことも困難であったであろう。上三依と上塩原の間の交易がいかに困難なものであったかが偲ばれる。尾頭道が昭和30年代に廃道となったのには、自動車の普及によってわざわざ危険な尾頭峠越えをせずとも大回りすれば楽に安全に行き来できるようになったという背景があったのであろう。1988年の尾頭トンネル竣工まで約20数年間、上三依と上塩原の間の直接の連絡路が存在しなかったのである。

さて、樹林の日陰で涼しく歩けるとの期待は裏切られなかったが、複雑な山肌に沿った道程が予想以上に長く疲れる。少しじっとしていると薮蚊のプーンという羽音がまとわりつくのでなかなか休む気にもならない。さすがに汗ぐっしょりとなってへばったので風通しの良い場所で二度ほど休憩した。

高度が上がるにつれて次第に斜面や道跡にスズタケが目立つようになる。最近スズタケ→マダニという連想が頭の中に定着しつつあったが、わざわざ険しい倉下山にやってくるもの好きなシカはいないようで、マダニには全くお目にかからなかった。

今尾頭沢と元尾頭沢を分ける尾根の稜線(標高約950m)に出ると国道400号を走る車の音が聞えてくる。ここから倉下山尾根が派生する場所までは尾根道となり、明るく雰囲気がよい。

倉下山尾根の派生箇所は尾頭山の中腹にある。つまり尾頭峠は尾根派生箇所の北側に位置する。それにも関わらず、尾頭道は北側に向けて折れ曲がる場所までかなり長い距離を南側に向かう。この区間のどこかで今尾頭道と交差しているはずである。それらしき道形が残っているが確証は無い。この辺りから陰鬱なスズタケ帯から美しいミヤコザサ帯へ移行する。

画像
尾頭山南斜面の上方を見上げた図。    11:36


尾頭道は尾頭山の斜面を3回折れ曲がって尾頭峠に向かう。北に向かう区間は短い。再び、長い距離を南側に向けて登っていく。最後の区間が最も長く、尾頭山を南側から北側の尾頭峠までグルッと巻くようについている。

尾頭峠再訪。ぽっかり開けた頭上の青空には秋の空のような絹雲がたなびいていた。

画像
12:02
画像
12:05


往時の会津西街道に想いを馳せながら20分ほど休憩して22号鉄塔へ向かった。

画像
22号鉄塔から見た上塩原方面    12:11
中央が倉下山尾根
画像
22号鉄塔から見た高原山    12:14


尾頭道の険しさと長い道程にやや嫌気がしたので、帰りは巡視路を下り国道400号を歩いて戻ることにする。天気も眺めも最高。尾頭峠探索だけで終わってしまうのがもったいないような気もしたが、気持ち良く尾頭道を辿れたのであるから贅沢は言うまい。ここからはほぼ全て急斜面の下りで腿の筋肉の疲労を感じた。高温下での尾頭道の登りがかなりきいたようである。

巡視路利用で尾頭トンネル東口(標高約810m)へ下降。 国道400号の車の往来は激しく、大型トレーラーが通過する時には少し危険も感じるものの、一本調子の緩い下りで快適。

尾頭道を辿っていて、急斜面の鬱蒼とした広葉樹林の中で何度か芳香が漂ってきた。いくら見渡しても花は無い。東電の巡視路を下る途上でも芳香に包まれた。クズの香りに似ていると感じたが、確証はない。

国道400号を歩いて戻る間、元尾頭沢に繁茂する満開のクズの花の香りが舗装道路歩きの退屈さを紛らわしてくれた。夏を代表する花の一つである。

画像
元尾頭沢の葛    12:52
繁殖力旺盛な雑草的存在だが、栄養満点で家畜の餌に適し、漢方薬の原料でもある。日本人には慣れ親しんだ植物であるが、ライバルのいない北米大陸に渡って大暴れしているらしい。彼の地の林業に打撃を与えているのだとか。


ずっと気になっていた尾頭道を辿れたことで塩原の廃道巡りに一応の区切りをつけることができた。機会があれば今尾頭道も探索してみたい。

後日、尾頭峠を検索していて、若くして逝った農民文学作家:長塚節(ながつかたかし 1879-1915)の「痍のあと」という随筆が目にとまった。彼自身が塩原から尾頭峠を越えて芹沢まで1日で往復した時の出来事が記されており、明治時代の尾頭峠越えの様子を知ることができる。

山野・史跡探訪の備忘録