引馬峠考−峠への道を辿る(2004年9月)

年月日: 2004.09.18

目的: 平五郎山〜引馬峠の峠道探索

遭遇した動物: サルの群れ(楡の木沢林道にて)

行程: 楡の木沢林道入り口(08:50)〜楡の木沢林道終点(09:30)〜平五郎山山頂(11:49)〜1,725mピーク(12:54)〜1,781mピーク直下の岩場(13:05)〜1,816mポイント到達・撤退決意(14:00)〜平五郎山復帰(15:55)〜楡ノ木沢へ降下(16:51)〜楡の木沢林道入り口帰着(17:43)

関連記録@ 2004-05-14 平五郎山登山
関連記録A 2004-10-16 女夫渕〜引馬峠〜孫兵衛山〜黒岩山〜鬼怒沼周回
関連記録B 2005-04-09 平五郎山〜引馬峠〜台倉高山(無砂谷周回)
関連記録C 2016-06-05 女夫渕 〜 黒沢第4号橋 〜 ホーロク平 〜 引馬峠 〜 引馬山(往復)

引馬峠の存在を意識したのは2003年のことで、良く覚えてはいないが帝釈山地に関する記述を検索していてたまたまその名を目にしたのが最初であったと思う。@かつて檜枝岐と川俣を結ぶ最短ルートとして用いられていたこととA廃道となって久しいこと以外は何も判らない。辻まことが引馬峠から檜枝岐に下った時には引馬峠はもう完全にその役目を終えて人々の忘却の彼方にあったようだ。

    画文集 山の声 辻まこと著 一九七一年二月二○日 東京新聞社発行

峠の位置だけははっきりしている。しかし、峠道がどこにどうついていたのか、いくら地図を見てもまったく判らない。川俣から檜枝岐の大畑まで人里を離れた深い山域を高度差約1,000m、地図上の平面距離にしても二十数Kmの峠越である。現代人にとっては気の遠くなるような話で、本当に峠道が存在し利用されていたのか疑わしいとさえ思えてしまう。

引馬峠の栃木県側にある黒沢(苦労沢)の谷の勾配は急峻で、ここに道があった可能性は低い。無砂谷(武者谷)のナガフセリ沢を詰めれば比較的楽に上がれそうだが、山肌をうねうねと歩くために距離が長くなってしまう。可能性があるのは平五郎山から尾根上を辿るルートのみである。2004年5月にわざわざ藪を漕いで平五郎山に登ったのはこの仮説を確かめたいがためであった。この時、平五郎山の南東尾根上で古い切り株や道の痕跡を確認したが、チシマザサが濃くなる標高1,500m以上では何も認められず、尾根上に峠道があった可能性を証明も否定もできなかった。

廃道に異様なまでに惹きつけらる自分としてはそのルートの確定が関心事の一つであったが、引馬峠に関する文献が見当たらず手詰まり状態が続いていた。ところが、9月に入っていつもとは違う検索エンジンで引馬峠を検索した時にある書物の存在を知ることとなる。

   山人の賦 III―桧枝岐・山に生きる 平野福朔・平野勘三郎述/志村俊司 編  一九八八年二月 白日社発行

宇都宮市の図書館の蔵書にあることを知り、さっそく借りて読みふけった。翁達が語った明治後期から昭和30年代頃までの山村の生活が克明に描かれている。当時の山村の暮らしを体験した世代にとっては感慨をもよおさずにはいられないであろう。この書物は引馬峠に関する豊富な情報が記述されている点において自分にとって特別な意味を持つ。この記述によって、引馬峠が実在し、自分の想像をはるかに超えるレベルの交易が行われていたことが確かめられた。以降は本書の情報とそれに基づく考察を青字で示す。

檜枝岐はかつて陸の孤島のような存在であった。分水嶺の会津側にあるのだが、下流域よりも関東から物資を仕入れたほうが安かったため、明治時代までは塩や石油などの生活必需物資は全て引馬峠を背負って運び込まれていたという。その頃は引馬峠に商人が荷物を置いておく小屋があり、関東から運ぶ物資は今市あたりから人足を頼んで峠まで背負い上げていた。檜枝岐からの物資も引馬峠まで運んで、人足に引き渡していたらしい。

昭和時代に入った頃には他の交通路の物流の改善により既に引馬峠の交易路としての需要は低下していたものと思われる。しかし、檜枝岐から関東に抜ける最短コースであることには変わりはなく、出稼ぎの人は皆この峠を通ったのである。その代表例が屋根屋(カヤ葺き職人)である。屋根屋は村ごとに親方の下に組を作って仕事をしていた。檜枝岐組は年に2回引馬峠を越えて栃木県に出稼ぎに行っていた。一回目は10月下旬から11月初旬頃に引馬峠を越えて川俣、栗山、川治、鬼怒川、日光・今市、塩谷町船生、鹿沼の在まで転々とし、翌年1月の末に旧正月を祝うために引馬峠を越えて檜枝岐に戻った。雪のあるときの引馬峠越しは難儀だったため、数日かけてトンネルが無かった頃の山王峠を越え館岩村を抜けて檜枝岐に戻ったこともあったという。2回目は3月10頃に出発し、出作り(居住地から離れた場所で耕作すること)の準備のために4月下旬に戻った。

引馬峠と栃木県のカヤ葺き屋根に深い関係があったとは意外であった。積雪の多い地方では雪下ろしの手間を省くために今はトタン屋根しか見られなくなったが、昭和40年代まではまだあちこちでカヤ葺き屋根の農家が残っていて、後に私の仲人をしてくださった方の家で葺き替えをした時の様子を覚えている。戦前は猪苗代町の農家の葺き替えも西会津方面のカヤ葺き職人の組が家に泊りがけでやったものだと両親から聞かされたことがある。

そしてこの書物の何よりも貴重な情報は地図上に引馬峠越えのルートが図示されていることである。それはまさに平五郎山の尾根通しのルートであった。

平野勘三郎氏の言葉によれば「峰通しに川俣温泉より少し下に出る。広いカヤのようなものの生えている牧場に下りる。」とある。平五郎山の登り下りにどの尾根を使っていたのかは判然としないが、地形的には南東尾根と考えるのが自然であろう(2018/08/19 訂正、ブーメラン尾根から1512mポイント及び1374mポイントを経て南に下っていた可能性が高い。)。山を下りてからは一部今の楡ノ木沢林道と重なる。そして最後は楡ノ木沢側へは下らず、緩やかな勾配を真っ直ぐ南へ下っていたようである。最近植林したばかりの地点が入り口であったと思われる。彼らの行動力の驚くべきことには、檜枝岐・大畑から川俣部落もしくは川俣温泉まで一日で越え、翌日には川俣ダムの辺りで今の道路よりもずっと上(アクバ峠など)を山越しして萱峠へ下りて、野門へ下りて、上栗山を通って、日蔭、日向に抜けていた。いっぺんに今市に出る場合には川俣で一泊して次の日は上栗山から大笹峠を越えていった。

引馬峠へ至るルートが判明したとなれば是非とも辿ってみたい。5月に平五郎山に登った時は、峠道の存在に疑問を持っていたために尾根上の藪の様子を見てそれ以上先に進む気にはなれなかった。しかし、明治時代は無雪期に人足が物資を運んでいたのであるし、カヤ葺き職人も無雪期に峠越えをしている。ひょっとしたら引馬峠まで行けるのではないかという希望が生まれた。ただ一つ気になるのはチシマザサの藪の存在である。このルートは尾根を西進する場所が多く、ピークの東側では深く積雪するためにチシマザサの藪が発達していることがあらかじめ予想された。藪があるとすれば鬼面山には及ばずとも小佐飛山や鴫内山の奥地に匹敵するであろうし、距離が比べ物にならないので体力的にも精神面でも耐えられない。ダメ元で立てた計画は一日目で引馬峠経由で孫兵衛山近くまで達し、翌日は黒岩山・鬼怒沼経由で女夫淵温泉に戻ってくるというものだった。一年を通じて誰も訪れない山奥であり、遭難したら絶対に発見・救出されないであろう。もし予定よりも遅れたり天候が怪しいようであれば潔く撤退することとする。目的はあくまでも峠道の探索である。

9月の3連休はアユ釣りの最後の追い込みの時期だが、山中泊必至の山歩きは連休でなければやる気にならない。よって、アユ釣りより峠道探索を優先した。楡ノ木沢林道入り口に荷物を置いて8時頃には女夫淵温泉の駐車場に着いた。すでに駐車場の8割方が埋まっていて多くの登山者や温泉の宿泊客が訪れていることを示す。ここから空身でMTBで楡ノ木沢林道入り口まで下る。順調に行けば良いが、途中撤退すれば高度差120mをMTBを押して女夫淵温泉まで歩いてくることになる。

08時50分 楡の木沢林道入り口出発。
日差しが強く、気温も高い。道脇の草は朝露に濡れて湿度も高い。今回は飲料水を3,000ml所持し、食料も十分積み込んでいるので重い。最初の林道歩きでバテないようにTシャツ一枚でゆっくりと歩いていった。

09時30分 楡の木沢林道終点到着。
5月に歩いた時には、楡ノ木沢林道終点の山肌の裸地及び南東尾根に向かう途中の崩壊地は何も育ちそうに無い荒れた乾燥地に見えたのに、9月には一転、径の大きなアザミの花で彩りのある場所に変貌していた。特徴はフジアザミと思われるのだが、栃木に自生する記録がなく正式名称特定できず。ご存知の方は教えてください。

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アザミ(正式名称がわからない。)
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花径が大きく(5〜6cm)、下向き。総苞片が反曲する。


藪に入るのでジャケットを着て楡ノ木沢沿いの踏み跡を辿る。支流の沢を3つ渡って前回と同じ南東尾根の先端にとりつく。今回はマダニが居ないのであまり神経質にならずに済む。

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まさか再訪することになるとは思わなかった平五郎山。今回はコメツガの木に掛けられた山部さんの山名板が出迎えてくれました。


11時49分 平五郎山山頂到達。
平五郎山に登り始めてからずっと、汗ぐっしょりで臭い体にたくさんのハエがたかる。マダニよりはましだが、ハエにチュウチュウされるのは気分の良いものではない。じっとしていると全山中のハエを集めてしまいそうだ。軽く食事をして祠に手を合わせて奥へと踏み込む。平五郎山の北側には白いビニール紐が何箇所かぶら下がっているが、引馬峠方面へ至る尾根筋にはマークの類は一切無い。平五郎山から北西に向けてチシマザサの薄い藪を下降。次のピークからは笹の丈も密度も低く平五郎山の頂上と似たようなもので歩くのにそれほど苦労しなくて済む。シャクナゲが生えている場所はカモシカの通り道を辿って巻けば労力を使わなくてすむ。尾根が狭まりコメツガが生えているような場所では笹が全く無く峠道の痕跡を認めることができる。人為的に樹木を切った跡が一箇所だけ認められた。1,725mピークに向かって西進するところは予想通りチシマザサの藪が深いが、平五郎山のブーメラン型尾根直下の藪と同レベルであり、まだ余力があるので突破。

12時54分 1,725mピーク到達。
平五郎山から1km余りで1時間強要したことになる。このままのペースでは日没までに引馬峠までは到達できない。1,725mピークから鞍部に向けて下っていく間は笹も深くなく、道跡も認めることができて快適。このまま進めることを期待した。

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1,725mピーク


13時05分 1,781mピーク直下の岩場到達。
1,781mピークの手前に尾根の南側に地図上には現れないシャクナゲの生えた小さなピークがある。登ってみると切り立った岩場で眺めが宜しい。ちょっと儲けた気分になって一休み。

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1,781mピーク直下の岩場から見た光景    13:05
平五郎山から1,816m地点までの区間で、唯一視界が開ける場所である。眼下の谷は錆沢。写真に写っている山は於呂倶羅山から太郎山にかけての山域らしい。この先の区間で眺望が期待できるのは1,896m地点くらいであろう。


1,781mピークの東側は勾配が大きくチシマザサの密度は濃くない。その代わり道跡も判別できない。ここはカモシカ道に沿って北側を巻き、徐々に高度を上げて1,781mピークの西側に回り込んだ。しかし、ここからが地獄だった。1,781mピークの西側にはおびただしい数の倒木が横たわり前進を阻む。それぞれが太く長いものだから迂回できない。下手したら脚を挟んで腿からボキッと折れかねない。事実、ひやっとする場面があった。辻まことが帝釈山から台倉高山へ向かう際に見た光景とはこのようなものであったのだろうか。

鞍部からの登りは予想していた通り小佐飛山並みの丈2〜3mのチシマザサ地獄が待ち受ける。コメツガ林が見えないのでずっと先まで藪になっていることが確実なのでうんざりする。しかも倒木の数も多い。アオモリトドマツがちらほら見えるようになったが大木ではないため日当たりが良く藪の濃さは変わらない。あまりにしつこく続くチシマザサと倒木地獄に久々にキレた。冷静さを失うと何かが起きる。今回もまた着脱式の偏光グラスを落としたが、気づいた時にはもう遅い。振り返ることなくひたすら前進。

14時00分 1,816mポイント到達、撤退決意。
ようやくコメツガの大木が生えるなだらかなピークの上に出てチシマザサが薄くなった。少しは道跡らしきものが視認できる。倒木の上に腰掛けてこれからのことを思案。1,781mピーク手前の岩場からここまで700m弱で50分かかっている。あと2時間で引馬峠に到達できないのは確実になった。引き返すならばここが潮時だろう。これ以上深入りして体力を消耗したら翌日帰宅できる保証はない。この先どうなるかわからない藪中で安眠できるほど神経は太くない。

前方の樹間から光が差しているので少し進んで見たが、ずっと広葉樹林が広がっていてコメツガが見えない。ということはこれまでと変わらない藪が続くことを意味する。しかもこの先は尾根がぐんと広がり位置を特定しにくくなる。よって、撤退を決意。あと2時間で平五郎山まで戻り山頂で一泊するつもりだった。

一般にチシマザサ藪の下りは登りに較べてはるかに楽である。しかしここでは倒木の存在によりこの法則が通用しない。藪歩きをする時、足を持ち上げる時にふくらはぎや腿の裏の筋肉に負担がかかる。ササをふりほどいて脚を持ち上げようとした時に激しく攣った。予想以上に体力を消耗するチシマザサ+倒木の恐ろしさを実感した。鞍部に下る時に若干無砂谷側に方向が逸れたが運良くカモシカが利用している広い水源地に降り立ち、カモシカ道を辿って尾根筋に復帰。

14時41分 1,781mピーク復帰。
地獄を抜けたのでなんとか平五郎山まで復帰できる目算が立った。登りで迂回したピーク上で一休み。

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1,781mピーク


なんだか左手の無砂谷側の樹林の見通しが悪く、暗くなってきた。谷全体がガスに覆われ始めている。一方、右手の錆沢側の谷は日が差して明るい。明と暗の境目を辿ってひたすら尾根を戻り、最後の平五郎山の斜面を登りきった。

15時55分 平五郎山復帰。
ガスがたちこめて暗い。自分が大嫌いな雰囲気である。とにかく天気が良くないと気分が悪いし、安心して眠れない。ここで一晩明かしたとして、翌日は再び朝露に濡れた笹藪を漕いで下るのである。少し無謀にも思えたが、日暮れまでに楡ノ木沢林道終点まで戻ることを決意。見通しが利かないので方位磁石を頼りにガンガン下る。

余裕が無くて地図を確認しなかったのとガスで見通しが利かなかったことで、ブーメラン型の尾根直下の下りで方向が若干西側に逸れた。目的の尾根を右に外したことは判ったが、やり直している暇はない。幸い、平五郎山の南側の谷はあまり急峻ではなく、沢筋を下れると判断してそのまま沢へ降り立った。後で地図を確認したところ標高約1,450mの地点であった。沢は岩石がゴロゴロしていて歩きにくい。濡れても構わないので水の中だろうが岩の上であろうが安全なところを選んで下る。3箇所程度やや落差の大きい場所があったが、いずれもなんとか左右から巻けた。小さい滝で頭から水を被ってリフレッシュ。暗くなってきたし眼鏡が汗で曇って足元が見難い。一度足が滑ってしこたま膝をぶつけたが幸い歩くのに支障は無かった。

16時51分 楡ノ木沢へ降下。
もう生還した気分である。沢の中に座り込んで体を冷やしてから林道終点に向かった。既に5時を過ぎて暗くなりかけているというのに終点で車のエンジン音が聞える。近づいていくと、なにかを叩いて威嚇しているような音が聞えた。人が尾根取り付きでこちらを見ている。けだものが寄ってきたと勘違いしたのであろう。全身びしょ濡れの格好なので人と対面するのが億劫で、上方にいた人に挨拶するでもなく道路に降り立ち先を急いだ。

17時43分 楡の木沢林道入り口帰着。
着替えをしていたら終点にいた車が下っていった。人のことを言えた立場にはないがこんな時間帯に何をしていたのだろうか。平五郎山の取り付きの下見だったのかもしれない。私が先に歩いていったのできまりが悪くてしばらく終点で時間をつぶしていたのであろう。

さて、翌日山歩きする元気はないからここまできたら帰宅したい。もう真っ暗である。荷物は林道入り口に置いていくとして、空身のトボトボ歩きでは不審に思われるので、登り方向ではあるがMTBを押していくことにした。これは正解。3分の1程度はMTBで走ることができる。適度に涼しい夜の奥鬼怒林道歩きは快適だった。真っ暗闇の中に鬼怒川の沢音が響く。暗い谷底に温泉の明かりが灯って美しい。6時45分頃に女夫淵温泉の駐車場に無事帰着した。今回は撮った写真の数も少なく三脚を使用することもなかった。それだけ撮影対象が乏しかったし気持ちの上で余裕がなかったことを意味している。当初の目的は達成できず、尾根の半分で撤退したが、やれる限りのことはやったし無事生還できて満足である。もう二度とこのルートを辿ることはないであろう。

尾根上にかすかに残された細い道形から察するに、引馬峠が使用されていた当時も峠道は踏み跡程度で、左右からある程度チシマザサが覆いかぶさるような状態であったのであろう。放棄されて数年で今のような状態になり、あとはカモシカに管理を任せることになったと考えられる。笹はなんとかなったとしても倒木はどうしていたのだろうか。数十年も前のことなので倒木を切除したような跡は残っていなかった。とにかく切除できるような半端な数ではないので当時から倒木を跨いで通っていたと考えるのが自然だろう。あの藪を最初に切り開き峠を越えていった先人たちの偉大さに圧倒される思いだ。

引馬峠が放棄されたのはいつ頃のことであったのか。尾頭道をはじめとして栃木県に残る峠道の多くが放棄された昭和三十年代のことではなかったか。道路が次第に整備され車による輸送が本格化し峠道はその役目を終えた。人々の記憶から消え自然の中にその姿を完全に消しつつある。

後日、宇都宮市図書館で偶然見つけた下記の書籍に引馬峠に関する記述があった。

    「奥鬼怒山地 − 明神ヶ岳研究」  橋本太郎著  一九八四年 現代旅行研究所発行

著者は1982年5月に一泊二日で檜枝岐から残雪の峠道を辿り平五郎沢を下って無砂谷右岸林道へ抜けた。このとき檜枝岐側で出遇った地元の人の話では、1982年当時既に峠道は藪に埋もれて無雪期に歩くことは不可能であったようである。

この時私が辿ったのは1,816mポイントまでですが、2005年9月に三峰山岳会の越前屋氏が尾根伝いに引馬峠越えを果たされています。

山野・史跡探訪の備忘録