鹿島神社〜三峰山(鍋山)〜寺坂峠(2005年1月)

年月日:   2005.01.29(土)

行程:    寺坂峠出発・標高約340m(08:40)〜 鹿島神社到着・標高約120m(09:05)〜 鍋山の山ノ神到着・標高約470m(09:53)〜 三峰山到達・標高605.0m(10:15)〜 剣ヶ峰到達・標高約580m(10:39)〜 寺坂峠着(11:21)

三峰山は鍋を逆さに伏せたように見えることから別名「鍋山」と呼ばれるのだという。山名がそのまま麓の地名「鍋山町」になったということか。三峰山という山の存在を初めて意識したのは約一年前。石裂山に登って嫌な思いをした同じ日に、一組の夫婦が三峰山で滑落しご主人が亡くなられた。この印象が強烈で、三峰山は石裂山と同様に危険な山であるというイメージができあがった。不動岳〜岳ノ山まで縦走した帰りに出流山近くを通って、三峰山の西側で石灰生産が行われていることを知った。なるほど、アルカリ性土壌を好むセツブンソウの自生地として有名な訳である。

このところ毎日帰りが遅かったこともあり土曜日(29日)の予定を立てていなかった。土曜日は朝は晴れるが午後からは雨の予報。よって、短めに歩けて面白そう且つ未訪の場所ということで三峰山を選んだ。今回は事前調査する余裕が無かったので他者の記録を参考にせず、地形図だけ見て縦走コースを設定。南側の鍋山町から尾根通しに寺坂峠まで縦走可能であると思われた。山の西半分で石灰岩の採掘を行っているので、崖で尾根が寸断されて先に進めないのではないかということが唯一の気がかりである。

国道293号から永野川沿いに鍋山町に向かって車を走らせると、眼前に三峰山のどっしりした威容が迫ってくる。この山は鍋山町にとって特別な存在であろうから、修験の場も当然南側に在ると思い込んでいた。しかし、南側の斜面には特に危険そうな場所は見えない。「何でこんなところで滑落事故が起きるのか?」と不思議に思いながら道なりに車を走らせているうちに、地図に無い新しいバイパスを走って三峰山の東側に行ってしまった。永野川を渡ってダンプの行き交う狭い旧道を南下し、新田で右折して出流山へ向かう途中で鹿島神社を目にする。南東尾根に取り付く場所を探しながら車を進めるが、人家が多いので良くわからん。そのまま石灰生産地帯を抜け、出流町側から寺坂峠へ上がった。

寺坂峠から未舗装林道が尾根上に南に向かっている。路肩が広いので2〜3台は駐車可能。鍋山町に駐車に適した場所はなさそうなので、今回は峠に車を置き、MTBで出発点へ向かうことにする。鹿島神社の裏山ならばMTBを隠すのに好都合だし、そのまま尾根を辿れば南東尾根に上がることが可能である。

比較的暖かい日で、MTBで快適に下れる。寝不足のせいか地図も方位磁石も全部忘れたことにようやく気づくが、峠を下ってしまったのでもう遅い。迷うような山には思えないのでそのまま続行。

鹿島神社の石段をMTBを担いで上がり、社裏手の杉林にMTBを置いた。予期した通り、杉林の中に奥に向かって薄い踏み跡が続いている。ほとんど歩く人はいないようだが、205mピークを過ぎて北に下る方向にもアズマネザサの藪中に踏み跡がある。

鞍部からは踏み跡が無くなるので、適当に高みに向かって杉林を急登する。斜度40度〜50度の急な斜面を抜けると期待通り山道に出合った。現在使われている様子は全く無い。深く抉れた道には杉の枝葉が溜まっており、間伐した杉の木が倒れこんでいたりして廃道化している。数m毎に杉の幹に白いビニール紐が巻かれているので、何年か前に誰かが道筋を標示しようとしたらしい。

三峰山南面杉林の中は常緑シダのオオバノイノモトソウだらけ。栃木県の里山(特に手入れの行き届いた杉林の中)でときどき見かけるが、これだけ立派な群生地を初めて見た。

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オオバノイノモトソウ  09:39


標高370m付近から尾根上にゴツゴツと岩が現れ、山道はこれを避けるように西側の谷に回り込む。谷では道形が不鮮明となるが、ここはまっすぐ奥に進めば良い。谷中は鬱蒼とした杉林で暗く、天気が悪い時には歩きたくない場所である。炭焼き窯がジョーズの如くバックリ口を開けており、現在の杉が植林される以前は広葉樹の森林に覆われていたことを物語る。美しいカケスの羽が散らばっていた。屍骸が見つからないので猛禽類に喰われたのであろう。山道は谷の奥で明瞭となり、再び右の尾根上に向かう。

標高約470mに鍋山地区の山ノ神(石祠)が在る。「明治三十九年十二月 大字鍋山」と彫られている。現在祀る人はいない。永野御嶽山神社のような仰々しい宗教施設ではなく、地域住民の純朴たる信仰の名残である。これまで辿ってきた山道は単なる山道ではなく、使い込まれた古い参道でもあったのだ。今では杉の枝葉や間伐した木に覆われて廃道化しているが、しっかりとした造りが、明治時代の人々の信仰心の厚さを物語る。

山の神を過ぎて山道はさらに上方へうねうねと続く。勾配が徐々に緩やかになり山頂に近づいたことを感じると、道は尾根から外れて西側へ向かう。分岐があって、直進せずに右折して東側に回り込んだが、これは失敗。三峰山東側から上がってくる尾根で道が不明瞭となるので、適当に杉林の中を登って山頂に近づく。山頂の東側に太陽電池パネルを持ったテレビの受信アンテナが設置されていて、切り倒した木材やアズマネザサの藪で歩きにくい。時計回りに迂回して山頂へ向かった。

三峰山の山頂の石祠の台座に「明治三拾八年四月」と彫られていた。旧寺尾村が立てたもので、これも永野御嶽山神社とは関係なさそう。レリーフがほのぼのとしている。

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三峰山山頂   10:15
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山頂石祠の彫り物   10:16


採掘場で危険なので立ち入り禁止の看板が立っている。採掘場のおかげで眺めは悪くない。子供の頃、雑木林の丘陵地を造成した場所で遊んでいたため、このように土や岩が剥き出しの場所も私の原風景の一つである。走り回りたい衝動に駆られた。山頂には左右両側にレリーフを施した凝った石祠があり、南西側を向いている。おそらく昔の参道は南西方向から山頂に至っていたと推測するが、現在はその方角は石灰岩採掘で山体が大規模に削られてしまっていて真偽のほどは不明。

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三峰山山頂から見た石灰岩採掘場  10:19


三峰山に登った人は誰しも西側の姿を見て「無残な光景」と表現するが、個人的にはこの手の光景は嫌いではない。そもそも昔の姿を知らないから比較のしようがない。「信仰の山」、「セツブンソウ自生地」というイメージばかりが強い山であるが、実体は植林と石灰岩採掘で地域産業を支えてきた山でもあるのである。

この光景が永遠に維持されることはありえない。土壌が剥き出しの状態にあるということは採掘が現在進行中であることを意味する。将来、山が削り取られて無くなってしまうのかもしれないし、再び草木に覆われていくのかもしれない。いずれにしても、この山が変わり行く一瞬を目撃していることになる。

思ったより早くどんよりと曇ってしまったので先を急ぐ。この時はまだ尾根伝いに登山道があることを知らなかったので、採掘場を中央突破。反対側の尾根に上がってみるとなんときれいな踏み跡があった。「三山参道」と書かれた案内もあり、現在の登山道が北西側から来ることをようやく悟った。

道は吉澤石灰工業が張ったロープ沿いにピークを巻いているが、試しにピークへ上がってみると剣ヶ峰の標示と石祠があった。明治三十一年十一月建立。「神道富士?教舎」「栃木縣安蘇郡常盤氷室講社」「惣講社」なる文字が彫られている。こちらは地域の守り神ではなく、宗教集団が立てたものであろう。「講」とは宗教・経済・社交上の目的を達成するために組まれた結集衆団のこと。ある宗派では群−組−講下−惣講という構成をとっていたようなので、要するに惣講とは末端の集団ということになる。御嶽山神社との関係は不明。

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剣ヶ峰  10:39


剣ヶ峰でようやく初めての休憩をとった。この先はアップダウンが少なく藪もなくたいへん気持ちの良い尾根歩きが楽しめる。杉の植林されたピークの手前で「下山路・奥の院へ」という標示があり、道が北側に下っていく。ここで道と別れて尾根を維持し、ピークでは周囲の地形を伺いながら進路を左(西)にとる。次のピークは広いが尾根の選択を誤ることはない。

地図上の540mポイントからの下りがやや判断が難しいかもしれない。急降下する場所なので進むべき尾根が見えず、おまけに右後方に高い尾根が見える。地図も磁石も無いので進路を間違えたのかと不安になったが、右下方向が永野川沿いの広い谷であることを確認して急な斜面を下る。この斜面には古い抉れた道跡が残されており、これを辿ると未舗装林道へ抜け、林道を歩いて峠にたどり着く。

危険な場所はなく縦走に向いた山であると思う。なんで信心深くもないのに皆さん危険な思いをして永野御嶽山神社から登るのか理解に苦しむ。南東尾根のコースの入り口さえ判りやすくすれば誰でも安全に登れるであろうに、惜しいことである。

さて、雨に遭うのが嫌で一気に歩いてしまったため、時間に余裕がある。まだ雨は降りそうにないので、前週に高原山手前の鉄塔から見た谷倉山南東の鞍部を一通り探索してから帰路についた。

山野・史跡探訪の備忘録