会津西街道・脇街道(川治古道)を辿る(2005年5月)

年月日:    2005.05.29(日)

遭遇した動物:  ノウサギ1羽

行程:     川治温泉・平方山遊歩道終点から歩行開始・標高約600m(07:42)〜 林道を横切る・標高約830m(08:14)〜 馬頭観音・標高約1,050m(09:22)〜 磁石石・標高約1,175m(09:43)〜 鶏頂開拓の丘陵・標高約1,245m到達で折り返し(10:15)〜 高原宿の墓石群(10:28)〜 車に帰着(11:48)

Revision01 : June 04, 2005 会津西街道・高原越えに関する記述を訂正

 

山王峠を経て会津に至る会津西街道(下野街道)は、川治から五十里の区間の男鹿川渓谷が険相であるがために現在の鶏頂開拓(標高約1,200m)を越えていかなければならなかった。この山越えのことを『高原越え』と呼び、藤原から現在の日塩道路沿いに高原新田宿(現在の鶏頂開拓南端)に至り、狸原山と二方鳥屋山の間を通って五十里宿に下り中三依に至る。江戸時代には参勤交代にも用いられた公用道であった。豊臣秀吉が奥州仕置の帰りに通った記録があるくらいだから、形成された時代はさらに古いことになる。この時、秀吉は元湯に寄っているから@高原道(尾頭峠〜地蔵曽根〜高原新田)、A元湯道(元湯〜大塩沢峠、元湯〜地蔵峠)、B赤川道(元湯〜高原新田)のうち、少なくとも@とAを使用した可能性が高い。高原新田宿〜川治間にも道が有り、高原越えルートの脇街道的位置づけであったと考えられるが、形成された時代は藤原〜高原間の道よりも古い可能性がある。

天和3年(1683年)の大地震で藤原町の戸板山(葛老山)が崩れ落ち、現在の海尻橋付近で男鹿川を堰き止めて古五十里湖が出現し、五十里宿はもちろんのこと上流の独鈷沢まで水没した。五十里集落は高台に移り水上輸送でつないで高原越えのルートが細々と使われ続けたが、その容量には限りがあり宿場としての機能は大幅に低下した。代替ルートとして会津中街道が開削されたことは有名だが、こちらも難ルートであるから会津西街道も存続した。また、今尾頭道を通って塩原に下り関谷宿に至る脇街道も整備された。40年後の享保8年(1723年)に古五十里湖が決壊すると五十里宿からの高原越えが復興したが、脇街道もからんで西街道と中街道の荷の奪い合いが激しく、以前の賑わいを取り戻すまでには至らなかったという。一方、高原新田宿〜藤原の区間は古五十里湖の出現・決壊に直接影響を受けず、同じルートが用いられ続けた。中街道の出現によって人馬の交通量や物資の取り扱い量の変動はあったろうが、高原新田宿の重要性は存続し、文久3年に男鹿川沿いの栃久保新道が竣工するまで高原越えルートが用いられた。

6月1日のアユ釣り解禁が迫るというのに、まだ仕掛けの準備ができていない。今年は天気の良い週末が続き、山歩きに精を出していたため、釣りのことを考える暇が無かった。準備不足であせる一方で、5月28日(土)は天気が良ければ2005年前半の山歩きの締めくくりとして一勝負賭けようと考えていた。しかし、27日(金)夜につきあいで酒を飲み過ぎ翌28日は二日酔いで午前中ダウン。29日の天気予報も冴えない。天気が良くないならば29日は久し振りに渓流釣りでもするか。釣りはたいして運動にならないので、ようやく酒が抜けた28日午後に今年初めてジョギングに出かけた。帰って来て天気予報を見てびっくり。29日午後からは晴れるという。参った。ジョギングによる筋肉痛で長時間の山歩きは不可能。短時間で面白そうな場所ということで、この地域の古道探索の先駆けである田辺さんのページを参考に念願だった川治古道を辿ってみることとした。(このページは現存しません。Internet Archive Wayback Machine で下記 URL を検索可能ですが、当時参考にさせて頂いた情報は取得されていません。)
http://hitotonoya.hp.infoseek.co.jp/tannabe_site.html"

29日に起きてみて、またまたびっくり。快晴である。気温も低く、湿度も低い。清澄度はあまり高くないものの、前週に負けないくらい良い天気である。つくづく脚の筋肉痛がうらめしく感じるとともに、天気予報の的中率の低さに腹が立つ。

行程は入り口が特定しやすい川治から鶏頂開拓までの往復とする。過去何度か川治を通るついでに破線入り口を特定しようとしたのだが、交通量が多いので入り口探しながらゆっくり車を運転する余裕がなく見つけることができていなかった。川治橋の袂から男鹿川左岸沿いに進むと山の上に向かう舗装車道がある。この終点が川治古道と接していることを上記HPの情報で知っていたので迷わず進入。拳大の石が転がっているが、普通車でも走行に問題はない。すぐに終点の駐車場に着いた。川治の高原地区から上がってくる古道は平方山遊歩道として整備され、駐車場が終点となっている。

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平方山遊歩道の駐車場   07:42


遊歩道の終点に車道が通じているのは、おそらく尾根の先端が見晴台になっているからであろう。地図を見ると駐車場から尾根先端まで高低差がほとんど無い。川治温泉に訪れた客が楽に見晴台に行けるように舗装車道を整備したと思われる。

駐車場から比較的幅の広い歩道が谷奥へ向かう。しかし、古道は尾根筋にあるので、谷奥へ向かう道を見送り、尾根上に向かう細い道に入る。何度か折れ曲がりながら尾根筋をはずすことなく上方に向かう。抉れた道形の風化具合といい、ツツジの枝の張り出し具合といい、いかにも古道の趣きである。ブナ、コナラ、カエデ、シデなどの広葉樹に覆われた斜面には笹が無く、マダニを意識せずに登っていける。尾根筋には点々と電信柱が建っており、電話線と思しきケーブルが上方に延びている。途中から古道とは異なる比較的新しい道形が現れ、古道と並行したり交差したり重なったりするので、歩き易い反面、古道歩きの趣きが薄れる。新しい道は戦後の鶏頂開拓入植以降に整備されたものであろう。電話線ケーブル敷設の際に整備されたとすればもっと新しいことになる。歩き易い新道を辿ると遺跡を見逃す可能性があるので、できるだけ古い道形を辿った。

スギの植林地に入ると林道が間近であることが解る。間伐された杉の木を何度か跨ぐと標高約830mできれいな林道に抜ける。林道は荒れていないが、最近車が進入した形跡も無い。林道入り口は閉鎖されているのかもしれない。

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林道出合    08:14


電話線ケーブルは林道を跨いでさらに上方へ向かうが、道の反対側に道跡は見えない。というより、林道建設によって山肌が削れているので道が判別できない。適当に山肌に取り付き、折れ曲がって上ってきた林道に再び抜ける。古道の続きは見えない。地図を見ると、どうやら林道は古道跡に重なっているようなのでそのまま道なりに進む。細長い尾根を横切り北側に抜けると、尾根筋に再び道形が現れる。

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川治古道  08:43
踏み跡程度の場所もあれば、写真のように広く深く抉れた場所もある。造られた年代の異なる幾つかの道筋が並行したり、交差したり、重なったりしている。


急斜面では適度にジグザグしていて歩き易い。2箇所ほど嫌らしいスズタケの藪があり、お約束のマダニがくっつく。上方に行くにつれてミヤコザサの林床となり、勾配も緩やかで順調に進める。標高950m付近では西側斜面にゴヨウツツジの開花が見られた。やや急勾配の岩がゴロゴロした場所で道形が不鮮明になり、道を誤ったのかと不安に思っていると初めて遺物が目に入った。街道跡らしく馬頭観音を発見して満足

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馬頭観音  09:25


『高原村中 施主 香取五兵衛 寶暦一四 甲申 六月吉日』とある。宝暦年間は1751年から1763年までの13年間。よって、宝暦14年は無いはずなのだが・・・。仮に宝暦14年があったとすると1764年に相当し、干支は甲申(きのえさる)で碑文と一致する。

このすぐ傍で道形は一部崩落して消失している。ここから先はミヤコザサや雑木で藪化しており、全行程中、最も判り難い場所である。電話線ケーブルに沿ってやや急な斜面を上がってみたが、広い道形は無く、荷を積んだ馬が通れたとは思えない。急な区間を抜けると再び道形に出合う。前方に鶏頂開拓の金網が見え、その手前のミヤコザサの中になにやら案内板が建っている。

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磁石石  09:43


案内板には藤原町文化財指定の磁石石とある。磁鉄鉱だそうで、確かに方位磁石を近づけると狂いが生じる。岩上に小さく文字が彫られている。

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磁石石の説明  09:43
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文久三年下ル  09:44


丈の高いミヤコザサが生える金網の外側をザバザバと進み、ビニールハウスのずっと手前で最初に現れる扉の鎖をはずして中に入る。過去に整地しかけて放置した荒地を突き進み、廃車の横を通って鶏頂開拓の舗装道路に抜けた。鶏頂開拓をどこまで進むか決めていなかった。古道探索が目的だから広い鶏頂開拓をただ歩いてもつまらん。たいして筋肉痛も感じずにここまで歩いてきたが、鶏頂山に行くほどの余力は無い。よって、近くで最も標高がありそうな所まで行って折り返すことにした。

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鶏頂山  09:46


電波中継塔のようなものが見えるので、鶏頂開拓を南北に貫く道路まで行かずに左側に進む道に入る。旧高原問屋屋敷跡を過ぎて丘陵に上がると、予期せぬ素晴らしい眺めが広がっていた。鶏頂開拓なんてつまらない場所だろうと思っていたが、とんでもない。この道路を選択したのは正解。鶏頂開拓の南側の丘陵を貫いており、しかも開墾地で樹木が無いため眺めが良いのである。山に登ったという感じはしないが、畑越しに奥日光・奥鬼怒・福島県側の山々を眺めるのも一興。

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奥鬼怒方面(明神ヶ岳方面)  10:04
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南会津方面(大嵐山と土倉山)  10:05


道は丘陵を少し下ってさらに北に伸びているが、最高点と思しき荒地まで行って折り返す。道端を埋め尽くすタンポポやハルザキヤマガラシがきれいだ。鶏頂開拓は均した場所が少なく、ほとんどの畑は多少なりとも元来の起伏を残してあり、北海道の馬鈴薯畑でも見ているようだ。開拓が始まってからだいぶ経っているはずなのだが、今も重機で整地を続けている。ほうれん草やいちごなどのハウス栽培が主体のようだ。

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高原問屋屋敷跡  10:23


帰りに、鶏頂開拓の道を真っ直ぐ進んで金網に向かおうとして、部落の出口の左右に墓地らしきものを見つけた。現在の鶏頂開拓の墓地ではない。享保や文化という年号が見て取れ、先の馬頭観音の施主と同じ香取姓も見られる。高原新田宿の人々の墓石であることは間違いない。現代の単純な四角柱の墓石と異なり、昔の墓石には様々なデザインが見られる。首無し地蔵のようなものも多数あるので、墓石だけではないのかもしれない。

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高原宿の墓石群  10:28


これは元来の墓地ではない。どこにあったものか知らないが、開拓の邪魔なのでここに移したのであろう。雑然と寄せ集められ、倒壊したままの墓石群は供養されているとは思えない。移設ではなく、廃棄したという感じ。墓石の墓場といったところか。

帰りはハウスに近い扉から出ようとしたが、鎖がはずれない。行きと同じ扉から出て、磁石石の上で鶏頂山を眺めながら早い昼食とする。

登りでは電話線ケーブルを意識しすぎて、鶏頂開拓直下の道跡を辿れなかった。下りは電話線ケーブルを無視して、道跡を忠実に辿る。予想していた通り、やや広い道形は尾根の東側の勾配の緩い斜面を折れ曲がりながら高度を下げていく。道跡はミヤコザサの藪なので少々識別しにくいが、この斜面はヤマツツジが満開で退屈はしない。一旦、沢のすぐ傍まで下り、斜面を横切る感じで尾根に復帰する。下りでは馬頭観音の在る場所を通らなかったので、街道の道筋は何度か修正されたようである。

昼近くになり気温が上がって、ようやくエゾハルゼミの合唱が聞えるようになった。この時期に故郷の山に行くことが無いので、エゾハルゼミの音を聞いたのは久し振りのような気がする。

川治古道は一部藪化しているところもあるが、辿るのは容易である。川治から鶏頂開拓まで引かれている電話線ケーブルがほぼ古道に沿っているので、道を見失ったらケーブルに沿って歩けば良い。高原新田宿の住民は麓の川治に移住したので、その後も細々と墓参りや山仕事に使われ続けたことであろう。戦後の鶏頂開拓の子ども達はこの道を通って川治の学校に通ったとも聞く。現在は交差する林道の周辺で山仕事用に使われており、また街道に沿って鶏頂開拓に電話線ケーブルが延びている。よって、『廃道』ではなく『古道』の表現が適切であろう。

下山後、五十里宿から高原宿へ抜ける古道の取り付きを探しに行った。古道が大畑沢右岸尾根にあることを知らず、左岸尾根をウロウロしてしまった。大畑沢の左岸尾根の先端部に五十里地区の墓とお堂がある。こちらは江戸時代の頃から先祖代々の霊が弔われている現役の墓地である。無縁仏も鄭重に弔われている。住人のいなくなった高原宿の墓石群と先祖代々人が住み続けている土地の墓地の差に戸惑ってしまう。住人がいなくなればその地で一般人が生きた証は史跡よりもぞんざいに扱われるのだ。古道歩きよりも墓石の方が印象に残った。

会津西街道そのものを不勉強であったため、これまで五十里宿から高原新田宿へ至る街道が必要であった理由や、川治〜高原新田宿間の古道の位置づけをよく理解できないでいた。川治古道歩きの記録を載せた後に我孫子の黒田さんから貴重な情報を頂き、ようやくこの地域の古道の沿革を把握。この地域への興味は、2003年に元湯から塩沢山に登った時に偶然辿った道跡に疑問を懐いたことに始まる。一見して普通の山域に深い歴史が秘められていた(自分が知らなかっただけなのだが)。昔の人々が現代の常識では考えられないような山越えをしていったという事実には驚きを禁じえない。自分が会津の出身であるためであろう、この地域には特別な想いを懐くようになった。ここでは漠然と廃なるものに惹かれるまま彷徨う己の山歩きの原点に戻ることができる。今後も機会を見つけては訪れてみたい。

川治地区にはヤマビルが生息している場所があります。笹薮の中は心配ないと思いますが、沢の近くで笹薮の無い場所は要注意です。

山野・史跡探訪の備忘録