吾妻山神社詣で(吾妻山修験行の跡探訪その1)(2005年7月)

年月日:    2005.07.13(水)

行程:     磐梯吾妻レークラインから歩行開始・標高約750m(07:02)〜 中津川レストハウス到着・標高約840m(07:40)〜 中津川登山口到着・標高約855m   (08:01)〜 吾妻山神社登山口到着・標高931m(08:38)〜 唐松沢を渡渉・標高約975m(08:52)〜 渡渉地点に復帰・吾妻山歩道に入る(09:57)〜 カラマツ植林地からブナ帯に抜ける・標高約1,300m(10:54)〜 針葉樹林帯下限到達・標高約1,450m(11:28)〜 姥神石像到達・標高約1,625m(12:26)〜 権現沢・標高約1,525m(13:00)〜 右岸原生林で退却(時刻不明) 〜 吾妻山神社跡(13:52)〜 姥神石像復帰(14:42)〜 唐松沢渡渉点復帰(16:10)〜 車に帰着・歩行終了 (18:10)

関連記録@ 2005-09-17、18 中吾妻山越え・中津川遡行(吾妻山修験の跡探訪その3)

吾妻山は福島県と山形県の県境に跨る、火山活動によって形成された広大な山体である。このうち、郷里の猪苗代に属し、西の中津川渓谷、東の大倉川渓谷に挟まれた中吾妻山と継森を中心とした山体は一般の観光客が入り込めない秘境である。中津川渓谷の出口付近は磐梯吾妻レークラインが走っているため、秋の紅葉の渓谷美を求める観光客で賑わう。大倉川も堰堤地帯には渓流釣客の姿が多い。しかし、どちらの渓谷も奥部は険しく容易にアクセスできる場所ではない。

この地域でまず着目したのは中吾妻山だった。こんな立派な名前がついていながら登山道が無い。アクセスしにくいだけでなく、西吾妻山と同じ様にアオモリトドマツに覆われていて景色が期待できないためと思われた。ところが、山頂近くの鞍部には大倉川から中津川方面に抜ける峠道を示す破線路が記されている。登山路にしてはおかしい。ガイドブックにも紹介されていない。Webで調べたところ、かろうじて大倉川方面から鞍部まで辿ることは可能らしい。目的は何だったのか?どうやら中吾妻山西側中腹にある吾妻山神社に詣でるための道、すなわち修験に起源を持つ道であったらしい。中津川渓谷を遡行する地獄駆けのことは父からも聞いたことがあったが、現代でも沢登りのベテランしか入り込まない場所なので、そのときはにわかには信じられなかった。吾妻山神社の存在を知ったことで、俄然、出身地の回峰修験行に興味が湧く。

磐梯吾妻の修験道の中心となったのは現在の磐梯町にあった慧(え)日寺であった。大同2年(807)徳一が行脚してから隆盛を極め、盛時には子院3800坊、寺僧300人、僧兵数千人、寺領18万石を誇った奥州随一の大寺であった。元々は磐梯山信仰から発したと考えられるが、これに慧日寺の山岳仏教が合わさり、厩山、猫魔ヶ岳、磐梯山、吾妻山(一切経山)、安達太良山を巡る様々な回峰行が発生した。このうち、中津川渓谷を遡り権現沢の吾妻山神社へ至るコースは地獄駆けと呼ばれた。

この地域の山岳信仰についてはhttp://homepage3.nifty.com/ishildsp/kikou/fukusima3.htmが、より詳細については慧日寺資料館の資料が参考になると思います。

吾妻山神社から北に向かい県境の登山道に抜ける破線路も存在する。途中にはヤケノママなる地名がある。ヤケノママとは「焼野間々」すなわち地熱で温められた崖という意味にとれる。実際に行った人の記録ではまさにその通りらしい。ヤケノママには営林署の小屋があったというから、この破線路は登山路ではなく営林署が設けた道である可能性が高い。「間々」は仏教との関わりも連想させるが、修験との関わりがあったのかどうかは不明だ。ヤケノママは何万年も前に閉じ込められた岩魚の聖域であるという。普段、栃木の山を歩きながらも中吾妻山とヤケノママのことが頭から離れなくなった。夏休みに帰省したついでに登ろうと、昭文社の「山と高原地図 磐梯・吾妻」と国土地理院の2万5千分の1地形図「吾妻山」を購入して計画を練った。

計画はいつもの大雑把なもので、基本的には、中津川から林道を歩き、中吾妻山中腹ルートを通って吾妻山神社へ至る。その先のヤケノママに行く破線路の状態を確かめてから中吾妻山に登る。その後の選択肢は3つあり、@継森経由でヤケノママに抜ける、A再び吾妻山神社へ下ってヤケノママに抜ける、B中吾妻山から破線路を辿って谷地平に抜ける。最後はいずれも蒲谷地へ下って周回する計画であった(結果的には天候が安定せず安全策をとったため、周回をあきらめて往復することになった。)。

周回前提なので林道に車で入り込む訳にはいかない。磐梯吾妻レークラインを金堀から中津川に向かう途上に車を停められる日陰のスペースを見つけた。

磐梯吾妻レークラインは秋元湖北岸に沿って尾根を横切るように走っており距離が長く起伏も多い。朝の気温が17℃とひんやりしてはいるが、前日の降雨で湿度が高くて朝日を浴びるとすぐに発汗する。中津川左岸のレストハウスからは西大巓、西吾妻山、中吾妻山、磐梯山が見渡せる。本日は快晴で、西大巓、西吾妻山、中吾妻山のいずれも雲が消えつつあった。

西大巓と西吾妻山
西大巓と西吾妻山    07:39
中吾妻山
中吾妻山  07:40
白布山と裏磐梯
白布山と裏磐梯    07:43


レストハウス左横に中津川渓谷歩道の入り口がある。道は次第に高度を下げて中津川の左岸に降り立つ。その先に道は無い。適当に左岸を上流に向かい、右岸沿いの林道が左岸に渡る橋の袂で未舗装の秋元湖岸林道に抜けた(中津川右岸側の秋元湖岸林道は廃道であり、現在は金掘集落側からのみアクセス可能。金堀側にゲートがあって一般車は進入できない。)。中津川渓谷歩道が沢底に降りる直前に上流に向かう不明瞭な踏み跡があるので、これを辿っても林道に抜けられると思われる。

車両進入禁止の林道の整備状態は良い。しばらく林道を進むと中津川登山道(沢登りコース)の分岐に至る。地形図には昭和20年代の中津川林鉄の軌道跡を利用した破線路が左岸沿いに権現沢の1.5km手前まで記されているが利用不可能(廃道)である。草むらに落ちていた古い登山案内板には「中津川遡行者に告ぐ。このコースは下の土場から観音滝を過ぎ、上の土場まで東岸中腹を登ります。そこから沢遡りとなり、神楽滝50m下で東側の山腹を巻き、靜滝、熊落し滝、朱滝とこれを繰り返し、ヤケノママまで実動8時間、全行程 県境尾根を通り抜けるのに2日を要します。ご注意下さい。」とある。沢遡りの愛好家はもっと下流から沢底を遡行して白滑八丁などを楽しむらしい。

旧中津川登山口
旧中津川登山口    08:02
中津川コースの古い登山案内
古い登山案内


昭和22年8月末、会津工業高校3年だった父は仲間と共に中津川を遡行している。友人の兄が山岳会員で地獄駆けコースの経験者であったため、その話を聞き修験コースを辿って吾妻山神社を目指したらしい。バスで秋元湖入り口まで移動し、秋元湖畔を歩き、最初から中津川左岸を遡行していったという。観音滝をはるかに過ぎたころ、にわかに空が掻き曇り、ものすごい土砂降りとなった。みるみるうちに中津川は増水。逃げ場所が無く、皆慌てて必死に沢を下り、なんとか東京電力の取水堰(中津川から中ノ沢経由で小野川湖に導水)まで達した。ひとりが空身でロープを持って渡渉し、皆ロープにつかまり右岸へ移動。東京電力の小屋に避難はしたものの全身ずぶ濡れ。寒くてかなわんということで小屋の壁の板を引っ剥がして燃やして暖をとったが、その晩どうやって飯を食ったのかは覚えていないとか。

林道は通行禁止になっているのでこの先誰に遇う可能性も無い。前日の降雨のせいで道路にはみ出た草に触れるだけで既にズボンはぐっしょり。快適な林道歩きのはずであったのだが、腹の調子が悪く2回も雉射ちとなりフキの葉っぱのお世話となる。

昭和30年代頃まではこの辺りに木材の切り出しを生業とする人達の集落(議場集落)があったらしいが、全て植林されてどの辺りが議場集落跡なのかは気づかなかった。地形図には議場集落跡と出森山の周辺には破線がいくつも記されているがいずれも廃道である。

吾妻山神社登山道の入り口標示がある場所(標高931m)にはガイドブックに書いてある入山届けを入れる物など無い。地形図の神社マークに相当する社を探してしばしウロウロするも見つからない。唐松川に至る林道支線に入るとすぐ右側に穏姿菩薩(姥神石像)が在る。2万5千分の1の地形図には鳥居記号は姥神様を指しているらしい。穏姿菩薩はとても優しいお顔をしている。祖母を思い出した。

登山道入り口の姥神石像
吾妻山神社登山道入り口の姥神石像  08:43


唐松川に架けられていた木製の橋は朽ち落ちてしまっている。渡渉は容易。

唐松川渡渉点
唐松川渡渉点    08:52


よさげな滝壺があるがお魚さんは不在。唐松川右岸沿いに林道跡が続いており、ここで地図を見ないで安易に林道跡を進んでしまった。現役の時の様子がそっくり残っている場所もあるが、ほとんどはチシマザサ藪に被われている。露でぐっしょりになりながら藪を漕いで進むも、林道跡が沢から離れる様子は無い。そのうち沢を渡渉する場所に至った。踏み跡はさらに対岸側に続く。渡ろうとして足が滑ってしこたま向う脛を打ちつけた。これを機にさすがにおかしいと思って地図を見て道誤りに気づいた。いったいどんな人物がこの道を歩いているのか不思議だ。

また藪漕いで渡渉点に戻り、山肌を良く見ると白い杭があって「吾妻山歩道」と書いてある。いきなり1時間の無駄歩きでガックリ。しかし、怪我の功名というやつで、このおかげで無事に戻れたのかもしれない。

吾妻山歩道入り口
吾妻山歩道入り口    09:57


最初はジメジメグチョグチョした杉林を直登する。杉林を抜け、ミズナラ林を透かして左側に中津川渓谷の空間を感じながら進むと広いカラマツ植林地帯に入る。カラマツ林にしてはめずらしく良く手入れされていて雑木が一切混じっていない。林床は腰から胸程度の高さのチマキザサ然としたチシマザサで、開いたばかりの笹の葉が美しい。道は明瞭で大変歩き易く、勾配の緩急に関係なく真っ直ぐ登っていく。雨露にぬれてぐっしょりの上着を脱ぎ、以後はTシャツ一枚で通す。特に藪は無いので問題ない。

標高約1,300m以下のカラマツ植林帯
カラマツ植林地帯と笹藪(帰りに撮影)     15:52


標高約1,300mでカラマツ植林地帯から美しいブナ林に抜けると突然にチシマザサの丈が高くなる。緩い勾配の見事なブナ林であるが大木は少ない。ワイヤーが転がっているので原生林ではなく二次林であるらしい。

ブナ
ブナ    10:54


ブナ林を登っていく途中で右側に沢音が聞えてくる。ほんの少し藪を掻き分けて沢できれいな水を補給。小さな涸れ沢でもこの時期は水流があるので、水質にこだわらなければ水の補給には不自由しないだろう。

標高約1,450mで針葉樹林帯に移行。明るい疎林でチシマザサが鬱蒼としている。歩道上に足跡は認められないが、新しい筍がへし折られているので何日か前に歩いた人たちがいることが判った。

針葉樹林帯下限
針葉樹林最下部    11:28


だんだん岩がゴツゴツしだしてアオモリトドマツが鬱蒼としてくると雰囲気が悪くなる。吾妻山山系を覆う火山噴出物はほとんどがゴツゴツした岩で、土壌が少ない。岩は苔むしてツルツル。岩を覆う針葉樹の根もツルツルで、至る所滑りやすく気が抜けない。倒木も多く、足をはさむ危険大。倒木で開けた空間にはチシマザサがすかさず密藪を形成する。窪みには腐食物が堆積してぬかるむ。登山道は不明瞭。要所に赤ペンキが塗られていて、新しい赤布もあるのでなんとか辿れるが、ガスにまかれたら歩く自信が無い。まったく特徴の無い樹林帯ではいつもの尾根歩きの感覚が一切通用しない。栃木県にこんな怖い場所は存在しない。生えている植物は似ていても、中生代の地層が隆起・浸食されて表面がなだらかな帝釈山地に較べるとはるかに難易度が高い。この時点で藪漕ぎする気力は無くなっていた。

アオモリトドマツ原生林
アオモリトドマツ原生林(帰りに撮影)
ギンリョウソウとゴゼンタチバナ
ギンリョウソウとゴゼンタチバナ  11:39


時折、古いブリキ板の道標が現れる。皆、「議場」と読み取れる。

一旦、岩と木の根がゴツゴツした不明瞭な道を数十m下る。権現沢に近づいたのかと思わしめるが、再び中吾妻山方向に緩やかに登っていく(この辺りの道筋は当時の2万5千分の1地形図の破線路の位置とはだいぶ異なっていた。)。

本当に正しい道を辿っているのか不安になった頃に、薄暗い林の中に鮮やかな赤い衣を着せられた姥神石像が目に入る。ちょっと不気味なお顔に見えるが、結界を張って修験者を護ってくれるありがたい存在である。

姥神石像
原生林に安置された姥神石像  12:26


姥神様のおかげで大体の現在位置を特定。まだ神社までは遠い。腹が減ったが、吾妻山神社に着いてから昼食にしたいので、小さなパンで我慢。

ようやく道が下り始めて権現沢に近づいていることが判る。中吾妻山北の鞍部へ登る破線路の分岐点を意識しながら下っていくとそれらしき場所があった。大きな岩に不明瞭な赤ペンキのマークがある。何故か自分が歩いてきた方向は×印。反対側に○印。でも○印の上方には道跡らしきものを視認できないし、赤ペンキや赤布の類も見当たらない。足元に落ちていたA3サイズのビニールケースを拾い上げて汚れを落としてみると、昭和50年にここで消息を絶った息子さんに関する情報提供のお願いが書かれていた。息子さんを失った両親の悲しみがひしひしと伝わってくるようで、くれぐれも遭難だけはできないと自分を戒めた。いったい彼の身に何が起きたのか?とにかく道に迷ったのは間違いない。迷って沢方向に下ったら確実に死が待ち受ける。じっくり慎重に山の上に向かえば登山道に復帰できようが、体力が尽きたか、踏み抜いて足の骨を折ったかして動けなくなったのかもしれない。見つかる可能性はゼロだ。

昭和50年に行方不明となった方の家族によるお願い
行方不明者の家族によるお願い


これ本当に道なのか?と思わしめる場所を権現沢に向かって急降下。小さい沢で踏み跡が一旦消えた(ここで上流側を良く見れば、吾妻山神社のご神体である石碑に気づくはず。)。少し沢を下ると続きがあり、4畳ほどの更地に至る。これが神社跡?本当に何も無いのか?不思議に思い少し先に進むと権現沢の崩壊ガレ地に出て急に視界が開けた。幾筋かの水の流れがあり、ガレ地そのものが沢のようになっている。ガレ地に生えている樹木はいずれも若く、崩壊したのはそう昔のことではない。歩き始めて初めて乾燥した岩場に出会ってようやく腰を下ろすことができる。中津川方面を眺めながら昼食。

この山域は動物が少ないのでハエの数も少ないが、さすがにじっとしていると二十匹くらいがたかってチュウチュウしている。この辺りはカモシカだって来ないだろうに何を餌に繁殖しているのか不思議でならない。

権現沢の崩壊ガレ地から見た西吾妻山中腹
権現沢の崩壊ガレ地から見た西吾妻山中腹  13:00
全コースで唯一視界が開ける場所。かつて地獄駆けの修験者はこの沢を遡行してきた。


さて、ここからどうしようか?中吾妻山に登る気力は湧かない。あの原生林だけは道無き場所に入り込む気になれない。空模様が思わしくないのでこのまま引き返そうか?

ガレ場の上を見ると赤ペンキの矢印が上を向いている。神社を指し示しているのかと思って半信半疑で進んでみるとガレ地を横切った先に新しい赤布があり、ノコギリやナタで樹木の枝やチシマザサ藪を切り拓いた跡があった。前年にヤケノママに行く道を辿った人たちがいたらしい。これでヤケノママに行く希望が復活。チシマザサの急登区間には笹刈りをした跡があるので、複数名のパーティーが確固たる意思を持って突破していったと考えられる。道があるなら行ってしまおうと、急斜面を登って右岸原生林に上がってみた。緩い斜面に出ると道跡は全く判別できなくなったが、古い赤ペンキと「議場」と書かれた古い道標が木に打ち付けられていたので、ヤケノママに至る道が二十年ほど前まで辿れたことは間違いない。迷いながら赤ペンキと赤布を見つけて少しずつ進むのだが、ペースが上がらない。10m踏み込んで何も見つからなかったら戻れるかどうか不安になる。そんな場所だった。赤布はついに深いチシマザサ藪の中に消えた。垣間見える西吾妻山が雲に覆われ始めていたので撤退決定。暗い樹林をガレ場まで戻る間は生きた心地がしなかった。

権現沢崩壊ガレ地
権現沢崩壊ガレ地    13:52


まっすぐ帰るつもりで権現沢のガレ場を渡り、さらに左岸の支流を渡ろうとした時、かすかに硫黄臭がした。ガイドブックには温泉の沢と書かれていたことを思い出し、源泉がどこにあるのだろうと上流側を見ると石碑のような物の頭が見えた。ご神体発見。権現沢を遡行してきた沢登りの人が吾妻山神社を見つけられなかったとか、登山道を見つけられなかったという話がある。吾妻山神社は権現沢本流ではなく左岸の支流にあるため、気づかず通り過ぎてしまうのである。

吾妻山神社跡(温泉の沢)
吾妻山神社跡(温泉の沢)  14:02


石碑には「奉納 吾妻山」「信夫郡平野村、中野村(+奉納者名)」「大正十五年三月」の字が彫られている。三月は当然旧暦で、深い残雪期に奉納したということになろう。信夫郡とは福島市方面のことであるから、当時は浄土平〜姥ヶ原〜谷地平〜中吾妻山北側の鞍部を経て運んできたと思われる。現在も修験道は受け継がれており、平成十三年と十四年の本山修験信夫先達会による再興入峰の「吾妻山大権現○」と書かれた木札が奉納されていた。この沢は権現沢左岸の小さな支流であり、石碑の横から温泉成分を含む温水が流れ出ている。

歴史ある神聖な場所に詣でることができて十分に満足。日暮れまでに車に帰着するにはギリギリの時間帯なので、慎重に歩く。分岐点を過ぎたところで携帯電話の着信音が鳴った。まさかと思い出てみると会社からの電話だった。この深山で電話がつながるという事実に驚く。デコ平のスキー場からの電波が届くようだ。

姥神様のご加護の御礼に、置いてあった空のペットボトルにアミノサプリを注いできた。

この後も快調であったがさすがに一気に600m以上下ると足が疲れる。唐松沢渡渉点で汗臭い衣服を沢水で洗いリフレッシュ。帰りは林道を金堀集落側に下った。林道の状態はきわめて良好。途中にきれいな湧水があるのでおみやげに汲んでいく。

金堀集落入口の家の犬に激しく吠えられたものの、トラブルなく通過してレークラインを歩いて車に帰着。

木地小屋集落に抜けてやっと携帯電話が通じるようになった。山に泊まらず帰る旨を伝えると両親も安心したようだった。その夜、雨が激しく降った。あのまま藪を突破していったらどうなっていたのだろうか?時間的・体力的にヤケノママ行きは可能であったろう。しかし、初めての場所で夜は雨に降られて精神的にはかなりつらい思いをしたに違いない。登り始めてすぐに誤って廃林道に入り込んで時間を無駄にしたことはむしろ幸運であったかもしれない。

デコ平スキー場ができる以前に西大巓に3回登っており、吾妻山系の大体の様子は解っているつもりであった。しかし、消え入りそうな登山道を歩いてみて不安と緊張の連続で、自分の卑小さを思い知らされた。この山域は今まで歩いた山域で最も手強い。無理せずじっくり時間をかけて歩いてみたい。

 

山野・史跡探訪の備忘録