葛老峠探索(2005年10月)

年月日:    2005.10.16

遭遇した動物: サル?クマ?

行程:     八汐大橋袂の舗装林道入り口出発・標高約610m(11:08)〜 葛老山西側の沢入り口到着・標高約730m(12:01)〜 沢を詰めて尾根に出る・標高約930m(13:00)〜 葛老山山頂到着・標高1,123.7m(13:48)〜 葛老峠到着・標高約990m(14:16)〜 葛老山山頂復帰(14:47)〜 林道終点に降下・標高約760m(15:27)〜 車に帰着(16:37)

関連記録@ 2004-12-04 葛老山(戸板山)登山・八汐湖周回
関連記録A 2006-10-22 葛老峠探索その2(2006年10月)

「日光山麓 鬼怒のたより」(http://www2.ocn.ne.jp/~kouroku/index.html、このページは現存しませんが、Internet Archive Wayback Machine で参照可。)のよもやま話・第五話に二宮尊徳に関する以下の記述があった。

 

嘉永6年(1853)7月2日から28日まで、荒廃した日光御神領内を立て直すための視察、日光奉行所手附として第一回目の廻村を実施した。と藤原町文化財保護委員会発行の「藤原町の文化財」97、8ページ書かれている。この時66歳。7月2日、日光を出立、所野→小百→大笹峠→日向→西川→川治村(現在の川治温泉)→小佐越新道経由で滝村『滝温泉』(現在の鬼怒川温泉)に泊まったとある。

日向から西川に抜けた?日向と西川の間には標高1,000〜1,200m程度の尾根が連なる。川治を経由していないのだから、現代の地図には記されていない峠道が絶対にこの地域のどこかにあったはずだ。しかしWeb上にこの峠道に関する情報を見つけることはできなかった。後日、図書館で戊辰戦争に関する書物を閲覧していて興味深い史実に行き当たる。

以下、「戊辰秘話 日光山麓の戦い」 田辺昇吉著 昭和52年発行からの抜粋・要約

 

大鳥圭介率いる旧幕軍は宇都宮城攻防戦等の幾多の戦いを経て次第に劣勢となり、日光山にたてこもった。今市を官軍(土佐藩)に押さえられて食料補給がままならず、ついに四月二十九日に日光を撤退。食料無しで山中で野営して六方沢を越えて大笹峠を経て日蔭に抜けたが、日蔭村には既に食料が無く沢水で飢えをごまかし、日向村に至ってやっとわずかな粥をすすり、葛老峠の峻険を越えて西川の上野に下り、会津藩領である五十里に入った。

大鳥圭介は会幕軍の将として再び今市に進出し、板垣退助率いる官軍と会幕軍の間で激戦が繰り広げられた。閏四月二十一日と五月六日の二度に渡る今市攻防戦に敗れた会幕軍は、その後藤原の要害で防御を固め、会津藩は富士見峠および大笹峠方面に唐木遊撃隊を展開して鹿砦を築き日光・今市に抜ける街道・間道を押さえた。このため官軍は会津西街道を突破できず八月まで膠着状態が続く。しかし、会津中街道および白河街道方面の戦いで敗れて劣勢となった会津藩が総退却命令を出すに及び、ついに会津西街道の戦局が動く。日光に駐屯していた官軍(芸州藩)は二手に分かれて進軍。本体は大笹街道を通り、支隊は富士見峠を越えて野門を経由し、日蔭で合流。会津藩の唐木遊撃隊は早馬の伝令を受けてその前日に退却していた。この後、芸州藩勢はウツギ沢から葛老峠を越えて進軍したが、峠越えで車輪が破損して2台の大砲を運ぶことはできなかった。

葛老峠なる名称を知ったのはこれが最初である。2004年12月に戸板山尾根を歩いて葛老山に登った時、戸板山尾根が葛老山にぶつかる地点に峠道の痕跡を発見。寛政四年建立の馬頭観音があるので江戸時代の峠道であることは間違いない。しかし、どこから登ってきてどこに下っているのかは未確認である。ずっとあの峠のことが気になっていた。あれが葛老峠なのだろうか?当然道筋を知っている人はいるだろう。しかし、地形図を見て古道の道筋を予測し、実際に検分して道形を見つけることにこそ謎解きの妙がある。

葛老峠の存在意義は何だったのだろうか?男鹿川の湯西川合流点から川治までの区間は峡谷で人馬の往来が不可能であった。だからこそ会津西街道はわざわざ高原越えをしていた。男鹿川沿いに移動できない以上、日向から三依方面に向かうにも山越えが必然である。では、峠道は葛老山の東西いずれにあったのだろうか?葛老山東側には実際に峠道の痕跡があるが、西川に向かうには葛老山西側の谷を遡行し打越沢に下る方が理にかなっているようにも思える。

川治ダム建設によって鬼怒川沿いの生活痕は八汐湖に沈んでしまった。これが謎解きを困難にしている。水没した街道跡を辿ることができないので、八汐湖沿いの林道を歩いて葛老山の南面で街道跡を探るしかない。まずは葛老山西側の沢を辿って尾根上に道跡を探る。もし西側尾根に峠道があれば西川に下り、再び一般登山ルートで葛老山に登る。なければ西尾根を登って葛老山に至る。葛老山からは戸板山尾根に下り、峠道の北側の行方を確認した後、峠道を辿って八汐湖側に下る。地形図の傾斜を見る限り、峠道は林道終点の尾根に向けて下ってくるのが自然のように思えた。この推理が正しければ林道終点に降り立つことができるはず。下りの道が見つからなければ山頂に戻り一気に南に下る。

前日は土曜出勤につき、疲れで16日早朝から行動する気になれない。幸か不幸か、朝方まで雨とのことで、余裕で朝寝坊。長時間行動はできないので葛老峠の探索にちょうど良い。今年は那須の紅葉を見には行けないかもしれないが、その分静かな山歩きを楽しむこととしよう。

八汐大橋袂の舗装林道入り口を出発。明け方まで雨を降らせていた雲は東に去り、青空も覗いていた。もう少し冷え込めばしっとり濡れた林の中でキノコ採りの雰囲気だが、贅沢は言うまい。

この林道は全て舗装されていて荒れはない。入り口を封鎖しているため、ゴミの不法投棄も少ない。八汐湖を眺めながら歩くことができるし、2つのトンネル:小峠トンネルと明神トンネルがアクセントになっていて退屈しない。明神トンネルの上方で、樹上で大きな動物が枝を揺らしているのが見えたが正体は不明。音を発して反応を見たが、サルの鳴き声は聞こえなかったのでクマだったのかもしれない。

葛老山西側の沢入り口(標高約730m)を見た瞬間にこれは峠道ではないと直感。狭い場所に岩が詰まった感じ。周囲の傾斜が急で且つスズタケがびっしり茂っているので興味が湧き、峠道探索そっちのけで沢を詰めてみることにする。

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沢入り口    12:01


しばらく登っていくと左岸に原型をとどめる炭焼き窯がある。てっぺんに樹木が根を張り、まるでユカタン半島のマヤの遺跡みたいだ。道は無くとも人の生活との関わりは深かったようだ。

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窯跡    12:13


炭焼き窯のある場所から奥はきれいなナメが連続し、水が流れている。道跡はない。

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12:18


大きな滝はなく水量も少ないので、数箇所を除き、気持ち良くナメを歩いて詰めていける。ナメはツルツルではなく適度なフリクション有り。沢登りの初級コースといった程度か?結構面白い。

小さい滝やゴルジュを適当によじ登ったりへつったり巻いたりしながら順調に進む。安物の登山靴でも歩けるレベルのフリクションがある。但し、同じコースを戻ってくる可能性もあるので、下れるかどうか判断しながら先に進む。最初の二俣では岩で塞がれている右俣を選択。さらに進むと地形図に現れないような小さなナメ沢が幾つか現れる。どこからでも尾根に上がれそうな雰囲気だが、沢はまだ奥に続いている。右側のチョロチョロ水が流れるナメの奥に興味を抱きよじ登って進入。ここでクリタケを発見し採取。

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右俣のナメ    12:35
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クリタケ    12:40


次の分岐では左俣を選択。こんな場所に2.5リットルの大五郎のペットボトルが転がっていた。植林地でもないし、沢登りが訪れることもないこんなつまらない沢奥でだれが焼酎を飲んだというのか?最後の二俣は気持ちよさそうな左俣(下の写真)を選択。

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葛老山西側のナメ沢の詰め(953mピークの南側)  12:48


どこまでもナメになっていて傾斜がきつくなってきたので、最後はスズタケの斜面に取り付いた。詰め上がった場所は953mピークの南側だった。痩せた尾根で背丈以上の高さのスズタケがびっしり生えている。おまけに青空が消えてどんよりと曇ってしまったので雰囲気が悪い。南側に聳える1,124mピークは急峻で手強そう。1,124mピーク経由で帰る気にはなれないし、沢を下るのも嫌なので、葛老山に行ってしまうしかない。953mピークに向けて人の踏み跡は無いが、細い獣道があるのでスズタケを掻き分ければ歩ける。葛老山も明神ヶ岳と同様にマダニ山なので発汗を覚悟でジャケットを着込んで藪を漕ぐ。

953mピークと葛老山の間の鞍部まではスズタケ藪の中にかすかに獣道有り。鞍部から打越沢方面に古い道形がジグザグに下っていく。しかし、八汐湖側はただのスズタケ藪で道跡は確認できない。道形は鞍部から葛老山方面に延び、いつのまにかスズタケ藪の中で不鮮明となる。峠道ではなく、昔の山仕事の道であったと考えられる。

葛老山西尾根は背丈以上の高さのスズタケ藪である(基本的にこの地域の山は、平坦な尾根上を除いて、山陰等で明るさに乏しい場所はスズタケ藪に被われる。)。少し勾配が緩くなるとスズタケの丈が低くなり、二重尾根を過ぎて平坦な場所に出るとミヤコザサ帯に移行する。ミズナラとミヤコザサの組み合わせが美しい。この後、一箇所を除いて山頂まで同じような景観が続く。

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葛老山西尾根(標高1,080m付近)  13:41


葛老山山頂・標高1,123.7mは見通しゼロ。落葉時を除いて登る価値無し。三角点に腰を下ろして遅い昼食とした。

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葛老山山頂  13:48


この山は正式な登山道は無いが、上野の林道奥から東の肩に向けて登ってくるのが一般的らしく、東に向かってミヤコザサの中に踏み跡が続く。前年より踏み跡が明瞭になっているので、栃木百名山なるものに選定されて以降、登った人は少なくないようだ。TVアンテナがある場所ではミヤコザサが胸高となり、この辺りは踏み跡がない代わりに新しい赤白の登山道マークが散見される。北側に下っていく登山ルートと分かれて、南東方向に下れば戸板山尾根に入る。

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葛老峠(標高約990m)  14:16


14時16分 葛老峠到着(標高約990m)。   峠の周辺だけがスズタケに覆われている。本当は峠道を辿って最後まで下ってみるつもりだった。しかし、時間的に余裕が無いので、下る方向を確認できるところまで辿ってみた。峠道はほぼ同じ標高を維持しながら五十里湖に面した急な葛老山東斜面を横切って北側に回りこみ、徐々に標高を下げて西川方面に下っていくように見える。これでやっと葛老峠であることを確信。

次は八汐湖側の調査だ。前回、戸板山尾根のミヤコザサの中に寛政四年建立の馬頭観音を見つけたのであるが、馬頭観音が峠から少し離れた場所にあった理由が解らなかった。道形は尾根の起伏を避けるために八汐湖側の斜面にあり、再び尾根上に復帰する。よって、馬頭観音のある場所が峠道であることが確認できた。では何処に向けて下っているのか?残念ながら空がどんより曇って雨が降り出しそうな気配である。まだ2時台なのに暗い。峠道が林道終点に向かっている保障はない。下っていって道形が八汐湖に消えていたら帰りが面倒だ。峠から林道終点に向かって急な斜面を斜めに下るのも危険。よって、安全策をとって一旦山頂に戻ってから林道終点に向けて重力方向に下ることにした。

前回は地図無しで山頂から浅い谷を下って、マダニだらけのスズタケ+つる藪に閉口した。今回は単純に藤原町と栗山村の境界尾根を下る。尾根の西側(栗山村側)が植林地帯(上部がカラマツ、中間がヒノキ、下部がスギ)で、東側(藤原町側)がミズナラ林である。ほぼ一貫してミヤコザサに覆われていて、急斜面でありながら歩きやすい。ベストな葛老山登山コース発見。

林道終点に降り立つ寸前に、笹原の中に古い道形があることに気づいた。よく見ると東側に向かっている。浅い谷にある炭焼き窯跡で見失ったが、峠道跡である可能性が高い。地形図から予想した峠道の場所は当たっていたようだ。道跡はうねうねと八汐湖に向かって下っていく。標高1,000m以上は既にガスに覆われてしまっていた。繁殖期を迎えたシカの悲しげな鳴き声が山中にこだまする。だいぶ暗くなったので探索を打ち切り、しっとりとした秋の風情を感じながら林道を歩いて戻った。紅葉にはまだ早いが、鮮やかなクサギの実が印象的だった。

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クサギの実  16:07


古五十里湖が無い時代は、三依〜西川〜(葛老峠)〜日向〜(大笹峠)〜小百〜所野のルートが脇街道として用いられたことであろう。では古五十里湖が存在した天和3年(1683年)から享保8年(1723年)までの間に西川−三依の交易はあったのだろうか?あまり顧みられない峠道ではあるが、個人的な古(いにしえ)への興味は尽きない。

山野・史跡探訪の備忘録