桃ノ木峠から日留賀岳へ(2007年5月)

年月日:     2007.05.16(水)

行程:   善知鳥沢林道ゲート前広場発(06:36)〜うとうざわ橋(07:07)〜三島道跡に到達(07:47)〜石積み(08:48)〜大規模崩落箇所(09:05)〜善知鳥沢奥部渡渉点(09:25)〜ヘアピン(09:41)〜桃ノ木峠(10:02-10:25)〜1,471.8m三角点(11:07)〜日留賀岳稜線に抜ける(14:44)〜日留賀岳(15:10-15:25)〜シラン沢林道終点(17:07)〜シラン沢林道起点(17:56-18:04)〜車に帰着(18:14)  

2021/04/01 一部の標高の誤りを修正

花の咲く5月であるというのに今年は土曜日の歯医者通いもあってまともな山歩きをしておらん。ツツジ本番の庚申山にでも行こうかと思い、久々に平日に休暇を取得。候補が幾つかあっていろいろ思案しているうちにだんだん考えるのが面倒くさくなってきた。これが悪化すると結局どこにも行かずじまいになってしまう。これはまずい。予定変更して塩原の三島道探索に切り替えて気分転換。こちらは廃道歩きだから目的がはっきりしておりルートに悩む必要も無い。

土木県令・三島通庸が栃木から山形にかけて作らせた長大な道路は俗に三島街道と呼ばれる。単に三島街道と書くとどの部分を示すのか判らないので、この記録上は善知鳥沢沿いの山岳道路という意味を込めて三島道と称することにする(塩原新道という呼称があるらしいが、正式なものかどうか知らぬ。)。初めて三島道のことを知ったのは、数年前、新聞で三島街道を復元する会の発足が報じられたときのことであった。いったいどこに道があるのだろうと地形図を見てもさっぱり予想がつかない。白倉山尾根の斜面は急勾配であり、こんな場所に幅広の長大な道路を建設することは常人では考えつかないし、そんな場所に廃道があるなど想像だにできなかった。塩原の古道探索の先人である田辺さんのHPを拝見して道が善知鳥沢右岸側にあることは判ったがそれでも納得がいかない。人力車がすれ違えるほどの幅を持つ道路でありながら何故にたった数年で廃道となったのか。峻険な場所に無理して建設した明治の尾頭道の方が有用であった理由は何なのか。自分の目で見て自分の足で歩いて納得のいく答えを得たい。

しばらく前に矢板岳友会の方が歩いた記録を見て、善知鳥沢林道の終点から三島道に上がる案を持っていた。つい先日、烏ヶ森の住人さんが歩いた記録を拝見して知った「三島街道を復元する会」のブログで道筋も明らかになった。栃木県道路行政の汚点の一つである塩那道路の原型ともいえる長大な道路の跡が、塩那道路のすぐ隣でのたうっている。明治の尾頭道と同様、徹底して道路勾配を低く一定に保つように設計されているため距離が長い。桃ノ木峠からの帰りは三島道を戻るか日留賀岳経由で戻るか状況次第。

善知鳥沢林道のゲートが閉まっていたので前の広場に駐車。

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駐車地    06:36


本日は空気が乾燥していて涼しいのでうとうざわ橋まで快適に進む。

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轢死したヤマカガシ    06:45
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06:59


うとうざわ橋から先は廃道状態でスズタケが茂りマダニが多いことは2005年秋に訪れて承知済み。ジャケットを着てスズタケ藪突入。

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うとうざわ橋    07:07


すぐに林道終点の広場に至る。谷奥側に適当に踏み込むと作業道らしき踏み跡があり、小さな支沢の右岸側をしばらく登ってから左岸側に移り植林地帯の中を何度か折れ曲がりながら高度を上げる。この類の作業道は上へ奥へ行くにつれて不明瞭になるのが常で、植林地帯の中で消えてしまうものと思っていたのであるが、獣道のような踏み跡が植林地を抜けてもさらに続く。かつて炭焼きにでも用いられていたのであろうか、それとも廃道となってからも横川方面に抜ける近道として用いられていたのであろうか。不鮮明な道形は途切れることなく左上方に向かい、やがて幅広の三島道の跡に達する。

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三島道跡出合  07:47 


やや傾斜の緩い場所では3〜4m程度の幅を持つ。最初のうちは藪も無く道形の保存状態が良い。この辺りの斜面は南東を向いていて笹薮が無くすっきりしていて気持ちが良い。本日は湿度が低くて空気が爽やか。新緑の中でジャケットを脱いでつかの間の解放気分を味わう。この辺りには珍しいことにモミジガサがたくさん生えている。モミジガサは数が少ないので採るのを控えているのだが今回初めて採取(アク抜きして賞味した結果、個人的にはヨブスマソウ(イヌドウナ)の方がはるかに美味と感じた。)。

道が北向きに進路を変えるとお決まりのスズタケ藪が現れ雰囲気が一変。廃道をシカが好んで歩くためにマダニの密度が高い。先に烏が森の住人さんが歩いてダニ払いしてくれているはずなのに、それでも10mも進めばズボンにべったりついている。スズタケの丈が高くなってきたので、以後は発汗覚悟でずっとジャケットを着て進むことになる。この発汗が桃ノ木峠以降の行程に大いに支障をきたすことになる。

道が北上する区間は傾斜がきつく道路幅も狭い。全ての区間で人力車が擦れ違えるほど広くはなかったようだ。

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幅の狭い場所  08:04 


最初の大きな屈曲点はニリンソウが美しい緩やかな谷。ほとんど花を見かけない道だが、この谷だけべったりとニリンソウが繁茂。クサソテツも春の陽光を満喫している。ここにはミヤマイラクサも生育していて、葉が茂ったら痛くて歩けないであろう。たいして美味しくないのに棘で痛い思いをするのは割に合わないので、数本採取しただけで先に進む。

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ニリンソウの谷南側  08:30


次の大きな屈曲点はガレた岩だらけの谷。ただし、ガレは現在進行中ではなく三島道の道形を最も良く残している。ここでは掘削ではなくガレ場の石を積んで道を建設している。今回辿った区間で唯一の石積みである。

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石を積んで建設した道路  08:48


概ね道形は残っているが、土砂で埋まったり路肩が崩れたりしており、薙で消失している場所も数箇所ある。決して安全とは言い難いが進みは順調。「烏ヶ森の住人さんの記録にあった大崩落部はどこかいな?」と思いながら石積みから歩くこと十数分でそれらしき場所に到達。あまり大きな谷ではないものの急峻。核心部の涸れ沢には足がかりがないように見える。その手前も十数mに渡って崩落しているが、ザレた斜面を安全な場所まで下れば滑落せずに涸れ沢を横断できる。反対側はスズタケに掴まりながら急斜面を道路跡まで這い上がった。この涸れ沢を横断する道形があったとは思えない。かつては橋が架かっていたのではないだろうか。

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大規模崩落部を下から見上げた光景   09:07


大崩落部の後も小規模な崩落箇所がある。下ることはできないし高巻くほどでもない。少し上側をかろうじてスズタケに掴まって渡るのだが、こちらの方が大崩落部より危険度が高いかもしれない。

次第に善知鳥沢の底が近づいてきて山肌の傾斜も穏やかになり、廃道歩きがほぼ終わったという感じがする。渡渉点に至る前に三島道本線から外れて上方に向かう脇道があり、カーブを曲がると再び本線に合流する。渡渉点で小休憩し、たらふく水を飲んで飲料水を節約。

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支沢沿いに西進   09:22
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1,304mピーク南の渡渉点   09:25


次に桃ノ木峠から下ってくる沢を横断する。水の量は少ない。峠との高度差はせいぜい50〜60m程度であろう。傾斜が緩いので歩行者はこの沢沿いに歩いて近道していたらしく、踏み跡があるように見える。廃道を辿るのが目的だから、近道したいのを我慢して先に踏み込む。峠まで残り約1.6km。

道路勾配を極力抑えるために、道跡は一旦桃ノ木峠から離れて南下し、1,471.8mピークの南尾根で折り返す。地形図では山肌の勾配が緩そうなので道の形が良く残されていそうに思ったのだが、最も自然への回帰が進んでいて消滅度が高く歩くのは決して楽ではない。尾根のヘアピンの近くにはどこから落ちてきたのか大きな岩がでんと居座っている。ヘアピンから桃ノ木峠までの区間はチシマザサの藪が多い。

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1,471.8mピークのヘアピン付近   09:41


桃ノ木峠は標高約1,200mの南北に長い鞍部を貫く。南側は藪であるが、中間地点まで行くと人為的に整備されているためなのか藪が無くすっきりしている。切通しというより鞍部を若干掘り下げて整地したという感じ。幅は5mも有り、せいぜい2m弱の尾頭峠に較べるとしっかりとした造りで保存状態も良い。案内の類は一切無く廃道の雰囲気が保たれていて満足。ウグイスなどの野鳥のさえずりが聞こえるだけで静かだ。あと一週間もしたらエゾハルゼミの大合唱に包まれることであろう。

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桃ノ木峠南側  10:02
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桃ノ木峠にて  10:11


三島街道を復元する会の復元作業の対象は横川〜桃ノ木峠の区間である。復元しようとする熱意と行動力には感服するものがあるが、廃道歩きの趣味を持って訪れる人が果たしてどれだけいるのだろうか?必要の無い長い道を維持管理するのは大変なことで、すぐに廃れてしまうのではないか?理由あって廃れた道は廃れるがままにしておくのが良いと思う。

三島道の約3分の1を辿りながら、1884(明治17)年に開通してからたった8年しか用いられず廃道となった理由を推測してみた。三島道よりも峻険な場所に建設された明治の尾頭道が1897年(明治26年)に開通してから昭和三十年代まで使用されたのであるから、地形の急峻さは理由にならない。では交通量はどうだったのか?当時は既に会津西街道の栃久保新道が存在し鬼怒川・男鹿川沿いの交通が容易だった。塩原経由でわざわざ山越えして物資を運ぶ理由はなかったはずである。塩原は古来、三依との関係が深かったため、塩原にとっては尾頭道の方が重要であったと思われる。福島県で盛んだった自由民権運動を鎮圧できるように軍事目的で建設したというのが本当ならば、善知鳥沢に架かる橋の損壊を機にたった8年で廃道となったのは当然であろう。もともと需要の低い道路だったということだ。悪しき公共事業のはしりと言える。

さて時刻はまだ10時を過ぎたばかり。日没まで8時間は行動可能。本日は雲ひとつなく雷に遭う心配もない。マダニだらけの危険な三島道を戻る気にはなれないので、桃ノ木峠から日留賀岳経由で戻ることに決定。

地形図上で日留賀岳西尾根に危険箇所はなさそうであり、辿れるか否かは藪の状態次第だ。事前に日留賀岳西尾根の植生に関する情報が得られなかったので日留賀岳までの所要時間が予測できない。等高線の具合から想像するに、シャクナゲはあっても密ではないだろう。針葉樹が多くチシマザサが薄いとすれば日留賀岳稜線直下までは2時間もあれば登れるはず。最後の稜線直下はハイマツ・ヤマグルマ・シャクナゲの混合藪の存在が予想されるので突破に最悪1時間かかるとして、日留賀岳まで3時間程度で行けるのではないかと期待した。

桃ノ木峠の北端で早めの昼食休憩の後、東側の樹林に突入。峠近くの平坦部は獣道らしきものがあるが広い斜面を登りはじめると消えてしまう。1,471.8mピークの西側斜面の植生は峠から山頂まで、ブナの原生林、密度の薄いチシマザサの林床、さらにその下にはヤブレガサという組み合わせ。芽吹きの頃は明るい雰囲気で快適に登って行ける。まだこの時点では青空に残雪を被る会津駒ヶ岳の白い姿が見えていた。山頂の三等三角点は最近測量の対象になったことはないようである。MWVのブリキ板が3枚有り、最新のものは平成5年である。こんなものがあるということはMWVが日留賀岳西尾根を登ったかもしくは下ったということだろう。

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1,471.8mピーク
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1,471.8mピーク 三角点


三角点ピークから先は尾根が明瞭となり稜線部のチシマザサの藪が濃いので、北側の藪の薄い場所の獣道を利用しながら鞍部に下る。鞍部の北側斜面には樹木が少なく、横川放牧場と県境、さらには会津の山々の眺めが宜しい。まだ空は青いが徐々に霞んできているので、おそらく昼過ぎには曇ってしまうと思われた。

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高原山方面  11:12
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横川放牧場  11:17


鞍部の東側でシカが逃げていった。鞍部からの上りは丈の高いチシマザサの密度が濃く、これに嫌気がして北側の藪の無い急斜面に回り込んだ。木の根や岩など掴むものがあって怖くはない。ここでスズラン似の植物を見る。葉を摘まんでみるとギョウジャニンニクの臭い。日留賀岳にギョウジャニンニクがあるとは聞いていたが、大規模な自生箇所を見るのは初めて。ビタミン補給によかろうと思い、ときどき摘まんでムシャムシャ食べながら贅沢な藪漕ぎ。

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ギョウジャニンニク  11:23
甘くてよい香りがしてピリリと辛い。やや肉厚で毛が生えておらず表面が滑らかなので食感も良い。標高1,450mから標高1,600m付近までおよそ1kmに渡ってチシマザサ藪の中に多数自生する


日留賀岳西尾根は樹木がまばらで密なチシマザサ藪が途切れることなく続く。地形図からはコメツガ林とシャクナゲの藪を想定していたので完全に当て外れで、時間切れ・体力消耗の可能性が出てきた。藪払いが雑だとチシマザサを脚の力で振り解くことになり普段使わない筋肉が疲労する。案の定、早くも標高1,500m付近で腿の内側の筋肉が痙攣しだす。三島道でマダニ対策でジャケットを着て発汗したのが効いてきたようだ。靴紐を結び直そうとしゃがんだとき両足が痙攣して笹薮に倒れこむ。状況はひょうたん峠から大佐飛山を目指した時と酷似する。こんな場合は思い切って大胆に休むしかない。まとわりつく小さい虫を払いながら痙攣が治まるのを待った。ついでにバッファリンも噛み砕く。

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両足痙攣で倒れ込む    12:08


既に正午を過ぎている。峠から日留賀岳までの行程の半分も進んでいないのに2時間近く要した。この先、藪はさらに酷くなるであろう。安全に下山するためには日留賀岳山頂に遅くとも16時には到着していなければならない。ビバークの装備はあるけれども、翌日の仕事をキャンセルするわけにはいかん。体力切れしないように残り時間を使い切るつもりでゆっくり尾根を辿る。いったん脚が痙攣してしまったので無理はできない。チシマザサを根元まで丁寧に掻き分けてから脚を踏み出すワンパターンの行動に集中。進みは遅いが確実に距離を稼ぐ。見通しが良い尾根なので、現在位置を正確に把握できるし日留賀岳の姿も見えているので、気持ちには余裕がある。

どの辺りだったか正確には覚えていないが、サッポロ味噌ラーメンの空き袋が7、8枚詰まったゴミ袋を発見。賞味期限が2006年2月であるから2005年頃にここで食事をした連中がいたのは確かだ。水の無いところで大量にラーメンを食ったのだから残雪期に歩いたパーティが残したものなのだろうか?あきれた連中だ。ゴミはもう一袋あったが、片方だけ回収。その後、別の場所でペットボトルも回収。

脚の痙攣が治まった一方でこんどは掌が痙攣しだした。チシマザサを掻き分け掴んで体を持ち上げる繰り返しであるため掌の負担が大きい。手も足も無理できないのでますます進みが遅くなる。

標高1,610mに上がるとわずかながら残雪の島が幾つかあった。笹薮は山頂直下まで続いているようだ。考えようによってはこの藪のパターンが続けば確実に山頂に届くということでもある。願わくはハイマツ藪には出遭いたくない。

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標高1,610m付近にて  13:24
日留賀岳は右側のピーク
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標高1,670m付近で振り返る   13:43
ネマガリダケ藪の連続


標高1,700mを過ぎてコメツガやシャクナゲが密に生える地形図には表されない小ピークに至る。自然の植生ならば越えるのは容易ではないはずだが、過去に鋸で枝払いした跡があり擦り抜けることができる。チシマザサ藪の中にもかすかに踏み跡らしきものが認められるので、かつて登山路を開拓しようとした連中がいるのだろう。ここでイワナシの花を見てちょっぴり癒される。

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イワナシ    13:56
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小ピークから見る日留賀岳北側稜線   14:08


日留賀岳稜線まで残り標高差約100m。最初の50mはチシマザサの藪でこれまで通り。中間からヤマグルマが混じり出してかわすのがつらくなってくる。さらに最後の50mはハイマツも混じって地面を歩くことができなくなる。空身でも頑丈な枝が交差する中を擦り抜けることは不可能だろう。大きなザックを背負っているので全く身動きできない。手も足も痙攣しない程度に力を使ってバランスを取りながら枝渡り。どこかに枝払いされたルートがあったのかもしれないが一旦この藪にはまったらやり直しが効かない(後で写真をみたら最も藪の濃い部分に突入したようであった)。日留賀岳稜線直下の藪はこれまで歩いた中で最強最悪。荒海山の藪が優しく思える。

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日留賀岳稜線から見る男鹿山地  14:44
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桃ノ木峠に至る尾根  14:59
右端が地形図に表されない小ピーク


日留賀岳北側稜線の藪も同じような状態である。枝払いされた不明瞭な踏み跡が無かったら移動困難だったかもしれない。日留賀岳まで350m移動するのに25分以上も要した。灌木藪なので一貫して眺めが良いのが救い。タイムリミットまで50分を残して日留賀岳着。ようやく安堵。青空は消えてしまったものの男鹿山地は良く見えている。初めて登ったときガスで見えなかった景色も眺めることができて満足だ。朝に登っていたら会津方面の眺めがきれいであったことだろう。

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日留賀岳山頂    15:20


山頂から少し下ったところにある残雪には新しい足跡無し。この日、日留賀岳に登った人はいなかったようだ。

登山道傍らにはショウジョウバカマが多い。日留賀岳を代表する花といえるだろう。ギョウジャニンニクも多いが貧弱。登りで見たものにくらべて3分の1程度の大きさしかない。

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ショウジョウバカマ    15:30


1,622mポイントから鞍部に下る途上でビニール袋発見。中には茨城県のコンビニで買ったと思われる16日午後3時賞味期限の「でか丸」おにぎりがそのまま残されていたので、前日の登山者が落としたと思われる。

鳥居に至る前のどこかで見知らぬ植物を発見。形はマンネンスギに似るが、葉の広がりが違う。ホソバミズゴケでもない。未だに名前を特定できていない。

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?  16:08
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白枠部分の拡大図


新旧2つの木製の鳥居とアスナロの森を抜けると標高500mを一気に下る。途中でみかけたトウゴクミツバツツジは一本だけ。日留賀岳はツツジ類が期待できない。シラン沢林道終点ではシロヤシオが開花中。

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シラン沢林道終点のシロヤシオ  17:08


シラン沢林道は眺めが良いので退屈しない。塩原のお気に入りの光景の一つだ。

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高原山   17:38


シラン沢林道起点の湧水で顔を洗い水分補給して息を吹き返す。

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シラン沢林道起点    17:56


車まで残りわずか。三島道が横たわる対岸を眺めてハードな行程の余韻に浸った。

山野・史跡探訪の備忘録