年月日:2007.06.23(土)
行程: 水と緑の広場出発(11:37)〜木ノ芽沢林道終点(12:31)〜木ノ芽沢に降下・昼食(12:42−13:00)〜東西トンボ沢合流点(13:30)〜トンボの滝(13:36-13:55)〜東トンボの滝(14:12)〜尾根上の街道跡・標高890m(14:30)〜沼原線57号鉄塔(14:51)〜八方牧場の舗装道路(15:00)〜1,049.6m三等三角点(15:34)〜金精林道に入る(16:13)〜山ノ神(17:18)〜水と緑の広場帰着(18:21)
快晴だというのにまたしても歯医者通いだ。幸いというか、前日までの雨が降っていたのでまだ那珂川の水が引いておらず、狙いの場所でアユ釣りするのは厳しそう。よって、午後から久しぶりに近場に山歩きに出かけた。場所は、2006年に訪れて頭痛のため途中で引き返した木ノ芽沢。予定では支流の東トンボ沢を詰めて左岸尾根にある街道跡の道筋を辿って学校平に至り、帰りは2005年に退却した崩落地点から東トンボ沢に降下するつもり。
早朝はきれいな青空が広がっていたものの、時間の経過とともに北の空に薄く雲が出てきた。高原山上空に雷雲が発生する様子はないので、計画通り木ノ芽沢の水と緑の広場に車を置いて出発。階段を登って右岸にある木ノ芽沢林道に抜ける。この辺りは私有林(山縣農場?)であるため、「無断立ち入り禁止」の標示がある。林道も私道なんだろうか。
紫外線が強い。既に昼近く気温は29℃で汗が噴出す。今回も懸垂下降の装備一式を持ってきたので重い。この時期は目を惹く鮮やかな花は無いものの、いたるところでコアジサイが咲き始めている。道端にはモミジイチゴがたわわに実り、ちょうど食べごろ。おやつ代わりにパクパク食べながら進む。
木ノ芽沢左岸尾根にある街道跡の起点が金毘羅橋左岸側にあることは昨年確認済み。今年は植林地伐採のために作業道として更新されてしまったので、入口を見ただけでは街道跡には見えない。
木ノ芽沢林道終点からは若い植林地の踏み跡を辿る。草木が繁茂して歩きにくいが、無いよりはまし。下草刈りをしていないから、道を外せば蔓と茨にはまってしまう。2006年に退却した地点に下りて昼食休憩。
水量は予想したほどではなく、遡行に支障ない。木ノ芽沢は巨岩がゴロゴロしていて高原山の沢の中では最も迫力があるように思う。段差が大きくて水線通しでは遡れないので適当に巻きながら進む。両岸は切り立った場所が多いが沢底が広くて水に浸かって歩く必要はない。落差数mの滝を過ぎるとすぐに大きなナメが現れる。ナメの奥には落差の大きな滝が控えている。このナメと奥の滝を合わせて「トンボの滝」と呼ばれているらしい。
ナメに向かって進むと予期せぬものがあった。明治時代後期のものと思われる、陸軍が設置した川界杭である。ここは東トンボ沢と西トンボ沢の合流点であった。つまり、トンボの滝の前段は合流点下にあり、本体は西トンボ沢にある。トンボの滝は下部に巨岩が転がっていて全体を一望できない。だいぶ高いところに懸かっている本体のナメ滝は神秘的な美しさがある。
左岸側にある細いバンドを伝ってなんとか滝の上に行くことが可能。本日は西トンボ沢を遡行する予定はないので、空身で偵察。滝の上部もヒタヒタのナメになっていて、その奥は小滝を幾つか連ねて穏やかな渓相になるようだ。
合流点に戻り東トンボ沢に入る。水量は西トンボ沢とほぼ同じだが、こちらは巨岩ゴロゴロで木ノ芽沢本流と同じ渓相。今年3月の賞味期限のパンの袋が捨てられていた。けしからん輩が解禁直後にここまで釣り上がったようだ。
東トンボ沢にも見事な滝がある。落差は15m程度だろうか。中津川の熊落滝のスケールを一桁圧縮したような厳かな場所。周囲の側壁は切り立っていて登れない。但し、滝の中にホールドがありそうで、シャワークライム覚悟なら直登できそうだ。その趣味はないので数十m引き返し、左岸の崖上に抜けた。
崖の上は勾配が緩く、林床は草原状。この草むらに可憐な花が点在。帰宅してから調べたところ、トウゴクシソバタツナミソウという名らしい。
驚いたことにこんな奥まった場所にも昔の山仕事の痕跡があった。伐採した切り株は見当たらないのだが、巨木にワイヤーが巻きつけられている。小尾根に出合ったのでこれを辿ると、標高約890mで街道跡に達した。尾根を回りこんで下りの様子を伺ってみると、そこは2005年に撤退したキレットのちょうど反対側であった。これで道筋を完全に確認できるので再び戻ってくる必要はない。大回りして安全な木ノ芽沢右岸尾根経由で戻ることに決定。
この先、八方牧場に至るまで崩落箇所はない。自然に形成された道ではなく、明らかに荷を運搬する目的で掘削して建設した立派な道だ。江戸時代に関谷街道が整備される以前に脇街道である八方ヶ原越えの道を大々的に整備したとは考えにくいし、そのような記録もないので、建設されたのは明治時代以降と考えられる。また、2005年に探査した区間の浸食の進み具合から見て、放棄されて数十年以上経過しているのは確かだ。
道路建設の目的として考え得るのは明治時代後期の軍馬通行と薪炭運搬、及び大正時代以降の民間による八方牧場経営である。明治時代後期に八方ヶ原一帯で矢板薪炭合資会社が大規模な炭焼きを行い、薪炭を運び出す目的で奥村道を建設した。この時、奥村道以外にも運搬ルートを整備した可能性がある。また、時を同じくして陸軍が広大な伐採跡を軍馬育成の牧場として利用した。当然、麓と軍馬牧場の行き来に奥村道を用いたであろうが、新たに陸軍が道を開削したとしても不思議ではない。道の無い沢奥に陸軍が設置した川界杭があるくらいだから、この道に少なからず陸軍が関与していた可能性がある。古地図を探して調査すれば判明するのだろうが、個人的にはこの程度の推理にとどめ謎を残しておきたい。
道上には標高920m付近で矮小なミヤコザサが現れ、上方に向かうにつれて徐々にひざ程度の高さになる。広がったばかりの新しい葉が美しい。はるか下方にある東トンボ沢の沢音が大きく響いてくるので、さきほどの滝以外にも幾つか滝がありそうだ。沼原線57号鉄塔で矢板方面の視界が広がる。きれいに笹刈りされた巡視路の一方は尾根上を上方に向かう。もう一方は東トンボ沢の奥に向けて下っていく。ひょっとしたら巡視路を辿れば金精林道に行けるのかもしれない。一応、帰りのオプションとする。
街道跡は巡視路として用いられていない。カラマツの植林地帯の中の街道跡を辿ると、八方牧場の新しい柵に至った。柵の中に入りさらに道跡を辿って八方牧場の舗装道路に抜けた。東トンボ沢の源流は八方牧場のさらに奥にある。地理的に街道跡は現在の舗装道路と同じであった可能性が高いので、奥を探ることはせずに舗装道路を歩いて学校平を目指す。
大間々のレンゲツツジが見頃だと聞いていたので、ちょっと標高が低いけれども八方牧場でもレンゲツツジが見られるのではないかと期待してきた。既に花期は過ぎていたが、わずかながら残り物を愛でる。この時期に山歩きすることが少ないので、レンゲツツジを山で見たのは久しぶり。
せっかくここまで来たので三角点探し。三角点には興味ないが、明治後期に陸軍が管理していた一帯なので、三角点の近くに陸軍用地の標柱があるのではないかと期待してのこと。2005年7月に前山・八方ヶ原線を歩いて学校平に来たときに探したが、地形図を持たなかったので見つけられなかった。地形図を見ながら牧場の縁の笹原を歩いてついに発見。笹原に埋もれて、とても三角点があるようには見えない。どうりで前回見つけられなかった訳だ。