楊枝峠(2008年8月)

年月日:     2008.08.12(火)

行程:     楊枝集落跡記念碑から往復

参考文献:  新版・会津の峠 歴史春秋社

出身地近くで、この数年来何度か試みながら未だに訪問を果たせずにいる場所がある。今年も単身で帰省なので例の場所に向かうべく国道294号を逸れて林道に進入してみた。ところがまたしても予期せぬ事態に遭遇。車を停めた途端に100匹は軽く越えると思われる小型のアブがビシバシ車にぶつかってくる。こんな凄い数のアブはシカが多い栃木県でも経験したことが無い。この辺りはシカがいないし近隣で畜産もしていないのだから何故にアブが多いのか解せぬ(*1)。今年はアブの当たり年なのか?防虫ネットを所持していないので、数時間も山歩きすればいくら振り払っても刺される数は数箇所では済むまい。刺されたときの痛みより後から来る痒みがたまらないので、念願の場所探索は秋以降に持ち越し。

*1 後日ネットで調べた結果、無数に飛び交っていた吸血アブはメジロアブ(イヨシロオビアブ)とキンイロアブであったと考えられる。こいつら初回の産卵は無吸血で行うため、大型の哺乳類なんかいなくても幼虫期の餌となるミミズ類が豊富であれば沢筋で大量に生息し続けることができるらしい。激しく吸血性を発揮するようになるのは2度目の産卵からであるとのこと。

まだ午後3時半。未訪の楊枝峠を訪れてみることにした。猪苗代湖近くの壷下(現地発音:つぼろし)集落から東に続く谷は会津から東に抜ける二本松街道の一ルートであり、最高点が楊枝峠である。この谷の奥にはかつて楊枝集落があった(1985年に磐越道建設のため全戸が移転して現存しない。)。猪苗代町立東中学校時代にここから通う同級生がいた関係で、子供の頃から楊枝集落や峠の存在を知ってはいた。遠隔地で交通が不便であったため冬季は月輪小学校の分校が置かれていたという。開けた明るい谷なのであまり山奥のイメージはないがクマがよく出没する場所で、親子のクマと遭遇したとか車でクマを跳ねたなんて話を聞いたことがある。自分も翁島小学校の分校の出身であるので楊枝という場所に興味があった。

壷下集落から細い舗装道路を東の谷奥に向かいスギ植林地帯を抜けると左側に磐越道が並走するようになる。磐越道は都沢でトンネルに入り、楊枝集落があった谷をかすめるわずかな区間だけ地上に出て再び鞍手山トンネルに入る。トンネル入口付近に楊枝集落跡の記念碑がある。車の走行音がするので、人々の生活の場が消えた寂しい場所という雰囲気は無い。残された耕作地は今も蕎麦などが栽培されて手入れされており、明るいごく普通の里山である。

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楊枝集落跡記念碑  15:51


以下は記念碑の碑文からの抜粋。

楊枝の集落は昭和六十年十二月、三百九十年に及ぶ村の歴史を閉じました。村の起源は慶長ニ年(1597年)にさかのぼり蒲生氏が会津を領した時壷下、中山両村の山中の街道に人家がなく往来の人々が難儀していたことから開かれた。以来、二本松街道の宿場として栄えた。明治になって山潟経由の新道や鉄道の開通によって中山峠を越える交通はなくなり、さらに東北横断自動車道(磐越道)の工事に伴ない全戸が高速道路の敷地となることから閉村となった。交通のために開かれた村が交通のために消えてゆくことは歴史の皮肉であろうか。

来た道を車で直進してみたが、アブがたくさん車にぶつかってきたので一旦集落跡記念碑まで退却。

予備知識無し、現地案内も無し。集落の神社でもあるのかと思って、道を少し戻って磐越道の下を潜って反対側に行ってみた。反対側にも道がありしっかりした林道が谷奥に向かう。少し奥に進むと左手に楊枝集落の墓地がある。人家は無いものの、チマキザサ藪中に生えるミョウガがかつて人家があったことを物語る。折りしも今年初のミョウガ花芽が頭を出していたので収穫。この道が楊枝峠に向かう道であるとは知らなかったので再び集落跡記念碑に引き返した。

まだ時間がある。先ほど歩いた感じではアブの攻撃性はあまり高くないようなので、楊枝峠を訪問すべく磐越道南側の林道に歩いて進入。ところが楊枝峠に続くと思っていた道は植林地で行き止まりとなり、昔の道跡らしきものは見当たらない。見当違いの場所を歩いてしまった。どうやら磐越道北側の林道を行くのが正解のようだ。

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フシグロセンノウ


午後5時を過ぎて林の中は少し暗い。とりあえず一里塚だけでも見ていこうと思って峠方面に向かった。道沿いにはよなき石や湯殿山の石塔がある。

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よなき石  17:39
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湯殿山の石塔


よなき石の近くのスギ林にもミョウガが生えているので、墓地より奥にも人家があったらしい。新版・会津の峠に拠ると明治十九年の大火で楊枝集落は旧地から南西に移転したというから、この辺りが旧地であるのかもしれない。

林道は楊枝一里塚の間を通る。北側の一里塚の手前を小さな沢が流れる。峠越えの旅人はここで休憩し喉を潤していったことであろう。

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楊枝一里塚(猪苗代町指定史跡)  17:24
若松の札ノ辻を起点として八番目の一里塚である。


小さいアブがたくさんまとわりつくが動いていれば平気。峠まで近そうだし道の状態も良いので峠まで足を伸ばしてみる。楊枝峠への道はなだらかで真っ直ぐな道であるという思い込みがあったのだが、実際にはいかにも峠道らしい雰囲気で最後の詰めは何度か折れ曲がって一気に高度を稼ぐ。

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楊枝峠   17:29


楊枝峠は鞍手山北側の鞍部にあり狭く、関所も茶屋もなかったようだ(関所は壷下集落にあり、峠近くに宿場として楊枝集落を置いたためらしい。)。現地には何の案内も無い。戊辰戦争当時、峠両側に会津藩が陣地を構えたとされるが、確認はしなかった。峠の反対側に熱海史談会が立てた五百川源流(八衢(やちまた)の清水)の標柱がある。染み出た水が少したまっているだけでとても清水とは言い難い(八衢の清水については新版・会津の峠を参照されたし。)。

峠からの眺望は無いので、巡視路を辿って峠の北側に2本平行する送電線の上側の鉄塔まで登ってみた。ススキの穂が出てナデシコが咲き既に秋の気配。対面に鞍手山が迫り、曇り空で眺めが今ひとつだったが猪苗代湖を眺めることができた。

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送電線鉄塔からの眺め(猪苗代湖側)  17:39
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送電線鉄塔のカワラナデシコ  17:40


ここは猪苗代町の境界且つ分水嶺であるので、いつかは辿って見たい山域だ。ヒグラシの鳴声が響く暗くなりかけた林道を歩いて帰着。この日の猪苗代はとても暑く、無駄歩き含めて2時間程度動き回っただけでパンツまで汗ぐっしょりであった。

 

峠北側にある磐梯線の送電線鉄塔巡視のために林道が整備されていて猪苗代町側から峠までは車で上がることができる(郡山市側は車の通行はできないが歩行可能な状態にある。)。集落跡記念碑から歩いて往復1時間未満であるので、峠道の雰囲気を楽しみたい方は歩いていくことをお薦めする。

山野・史跡探訪の備忘録