木ノ俣川の軌道跡に関する考察

2008.08.30(日): 初版作成

2018.08.11(土): 訂02 フォーマット変更、画像追加

関連記録@: 2008-05-11 木ノ俣川とヒツ沢(取水堰見物)
関連記録A: 2008-05-24 木ノ俣川その2(取水堰以遠)
関連記録B: 2010-09-19 ヒツ沢を詰めて大佐飛山・2日目
関連記録C: 2014-07-26 木ノ俣川遡行

下手の横好きって奴で、色々なことに手を出しているおかげで気象条件に合わせて野外での遊びには事欠かないのであるが、さすがにこの週末は参った。雨の中の山歩きなんて意味無いし、キノコ採りも高原山でヤマビルにたかられたのでイヤ。渓流釣りは増水した川に死にに行く様なものだし、アユ釣りも川が味噌汁状態、防波堤釣りも波が高くてダメ。午前中に陽射しがあるうちに溜まった洗濯物を乾かして、再び雨が降り出した午後から図書館に資料漁りにでかけた。

今年何度か木ノ俣川に入り込む機会があって、『軌道跡』と呼ばれている道跡の正体が気になっていた。10年以上前に本屋で立ち読みした渓流釣り場の案内本に『軌道跡』と表現されていた。矢板岳友会の地域研究の文書にも『軌道跡』の表現がある。立派に護岸された石積みや橋脚跡、補強用の木材、木材を繋ぎとめるボルトや板金類が残ってはいるがレールの類は一切無いので本当に軌道だったのか不明。少なくともWeb上にはその目的や建設された年代について手がかりとなるような情報が無い。栃木県の鉄道史をまとめた本にも載っていない。木ノ俣川は栃木県ではメジャーな渓流釣り場であるのに、何故にあの道跡に関する情報が少ないのか?釣り人は一般に釣り場の情報を秘匿するのであるが、それにしても情報が無さ過ぎる。その正体を知る人がほとんどいないことを意味するのか?人々の記憶から消えてしまうほどに古いものなのか?

マロンの部屋というサイトに『木ノ俣森林鉄道』なる名称があったが、未調査らしく詳細な記述が無いので、これが『軌道跡』に相当するのかどうかは不明。『木ノ俣森林鉄道』で検索してもWeb上では他に情報がヒットしない。大規模な土木工事であるから栃木県の土木に関する記録を漁れば何か情報が得られるのではないかと思って、栃木県に関する文献をペラペラ。昭和二十年代の建造物であると想定して探したがそれらしきものはない。あきらめかけて最後に手にしたのが『栃木県那須郡誌』。大正十三年の那須郡教育會による那須郡誌と大正十ニ年の那須郡役所による那須郡制史の合本(千秋社;完全復刻版)である。その第四章 『土木に關する施設』に『軌道跡』解明のヒントとなる情報があった。

治水と源水地の踏査

箒、那珂、蛇尾其の他各河川の水害比年相次ぎ、縣は年々多額の工費を支出して之が治水に汲々たるも随て治むれば随て壊れ、殆ど底止するところを知らざる状態に在り、其の結果縣債年一年に累加し、縣財政の前途に對して、識者をして窃に憂■を禁ずる能わざらしうるものあり、而して是れ主として、水源地に於ける森林の濫伐に因るものにして、就中鹽谷郡鹽原村及び箒根村地内に属する國有山林たる、諸山岳より發する溪流は悉く箒川の水源にして、下流一帯の地に於ける治水又は灌漑上至大の關係を有するも大林區署官行事業は當該署長の言に徴するに、總面積約壹萬町歩に對し、一ヶ年約百町歩を限度とし、之を一ヶ所に於いて伐採するときは、水源涸渇又は土壤の崩壊を來すの虞れをあるを以って全林各所に鹽梅伐採するものなりと云い、又前年日本酢酸製造會社に賣買契約せるは一ヶ年六千棚にして、之が伐採地域は七十町歩、八ヶ年間の輪伐法によるものなりと稱するも、之が供給の爲軌道の敷設せられたる善知鳥澤の如きは、其の伐採面積一見既に百町歩餘に亘るが如き急激の伐採なるのみならず、兩三年前伐採に係る尾頭山及小名子山等の、土壤崩落■れも七八町歩の多さに及べる、其の他斧鉞の入る處土砂崩壤を見ざるなく、近年箒川河身の土砂堆積して荒廢に歸するもの、畢竟水源地の濫伐に原因するものなりとの理由を以って、明治四十四年二月本郡會は箒川の水源たる無数の溪流、就中精進川、善知鳥澤、尾頭澤、赤川、須香澤、大入道澤、小入道澤等の如き、深澤溪流の兩岸傾斜面の地は、水源涵養土砂杵止の目的の爲、絶對永久に伐採せざらんことを望む旨の意見書を本縣知事に提出したりしも、濫伐の弊依然として抑止せらるるに至らず、該沿岸の水害に苦しむもの、年々多きを産するの状況に在り、是に於てか大正八年郡會は水源地視察のことを議決し、郡會委員室井要、稲沢兼太郎、矢内卯之吉、藤田庄五郎、白相勘三郎、八木澤喜一、相田甫、新聞記者田村一子、大出勇、郡司勘之助等十名を挙げて視察員となし、郡長富田美次郎、郡書記荒政男、林業技手澁井俊夫之に参加し、同年五月九日より十三日に至る五日間、親しく那珂、蛇尾、箒等各河川の本支流に係る水源地を跋渉踏査して、審に其の地勢、土質、林相、施業当の實況を視察する所あり、其の結果視察の状況と之に對する意見とを具して、之を郡長並に郡會に報告すると共に、又該報告書を本縣知事に提出し、以って縣治上の参考資料に供せり、而して今茲に其の要領を戴録すれば左の如し、最近縣が水源地に於る山林伐採に付、特にその意を致さるるもの、想ふに亦是等に鑑みらるる所あるに因らざるなきか。

大正時代に県北でも森林伐採による水害が深刻化してその対策に汲々としていた事実は新しい発見だった。明治後期に足尾銅山坑木用に根勢川(現金精川)流域の伐採計画が持ち上がった際にも内川流域住民が反対運動を起しており、昔から水源地の保全の必要性について広く認識があったことが伺える。当時は松木渓谷の荒廃が進み保水力が失われて度々水害が発生し、渡良瀬川流域に足尾銅山の鉱毒が流出して社会問題化していたため関心が高かったのかもしれない。

報告は

  一、那須岳方面
  ニ、那珂川本流大川及支流大澤方面
  三、那珂川支流矢澤方面
  四、那珂川支流木野俣川方面
  五、蛇尾川方面
  六、箒川水源方面

から成り、最後に提言が付記されている。

木ノ俣川に関する記述は以下の通り。

四、那珂川支流木野俣川方面

地勢峻險にして溪流は斷崖絶壁の間に奔流す。土質粗密に失せず適濶にして林木繁生す。木野俣橋より遡ること約三十町西俣川東俣川の合流點以西上流の地は即ち三萬八千町歩にして本川の水源地たり。針濶混淆の異齢林にしてケヤキ、ブナ、ミヅナラ、トチ、カツラ其他矮牛雑木とアスナロ、サワラ、クロビ、モミ等と混生す。混淆歩合は一様ならざるも殆ど針葉樹のみの個所亦少からず稚樹の發生は濶葉樹及アスナロに於て見るべく従て幼老雑多の齢階を有す。現在批の方面に於て事業をなすものは仙臺前田俊一にして林主たる東京木材興業株式會社と十五ヶ年間繼續事業の約定にて立木を買受け大正六年より着手しケヤキ及針葉樹全部の伐採搬出をなす。西俣川方面に於ては既に伐採を了し目下運材中なるが西俣東俣の合流點迄は土橇により以下は延長約三十町の軌道により大字百村穴澤に搬出す。東俣方面は目下約三百名の勞働者を使役し伐採並に運材に屬す。■伐は擇伐法により運材は修罹及管流によるものにして合流點附近の河中丸太の散在するを見る。

@木ノ俣川の西俣沢川と東俣沢川の合流点より上流域の樹木伐採は大正六年に始まった。

A択伐であった(皆伐ではなかった)。

B伐採の対象はケヤキと針葉樹全てである。 →木ノ俣発電所の取水堰以遠の針葉樹が少ない広大な緩斜面は一見原生林のように見えるが全て大正時代に択伐された跡地である。

C大正八年当時、百村穴沢から西俣沢川と東俣沢川の合流点(落合)まで3km余の軌道が敷設されていた。 →現在の林道終点広場は軌道の終点・土場だったことになる。

D西俣沢川は落合まで土橇で運材していた。 →西俣沢川沿いには木材を敷いた土橇道があったはず。

E東俣川は川まで木材を修罹出しで(滑り落として)集積し、管流で(鉄砲堰で一気に流して)落合まで運材していた。 →大正八年当時は落合以遠に軌道は存在しなかった。

300人も奥地に入り込んでいたのだから、土橇または軌道による搬出が行われていなくても道路を建設する必要性があったはずだ。おそらく最初は人と物資を運び入れる目的で『軌道跡』の原型となるべきものが建設されたことであろう。現在の『軌道跡』は人が歩くには立派過ぎるので、最終的には落合から土橇道もしくは木製軌道が延伸された可能性が高い。

管流とは大雨で増水した時や鉄砲堰で木材を下流に流す運材方法だから、コントロールできる距離は限られている。視察が行われた大正八年当時は東俣川流域の伐採が本格化して間もなく、現在の2段堰堤上のゴーロ付近が主な伐採地であったと思われる。それより奥部は木ノ俣大滝を含む長いゴルジュ区間が在りさらに奥の広大な伐採適地から管流で木材を搬出するのは困難だ。契約では昭和初期まで伐採が続けられたはずであるから、視察が行われた大正八年以降に奥部に伐採地を拡大するにあたり土橇または木製軌道による搬出に切り替わったと考えられる。

視察報告には以下の3点の提言が付記されている。

 @専任監督機関の特設
 A河流による運材を許可せざること
 B伐採を択伐法によること

栃木縣議會史によると、管流は河川及び下流の土木施設への害が大きいことから大正五年及び六年頃に既に規制すべき意見書が提出され可決されている。東俣川沿いの搬出道建設には@とA項が決定的な役割を果たしたと考えられる。伐採業者の前田俊一は当時、大川源流域でも欅(ケヤキ)用材の伐採を行っており、搬出は土橇及び駄送で行い管流は用いていなかった(大川林道:黒磯−田島線の基礎である。)。木ノ俣川流域でも択伐法による伐採を行っていたので規律ある業者であったのであろう。戦後の林道工事では考えられないようなしっかりとした護岸工事と橋脚跡が丁寧な仕事振りを物語る。

落合から最終地点まで総延長5kmの搬出道だ。確認しただけで渡渉点7箇所を数える。特に木ノ俣大滝手前の渡渉点は大場所であり勾配もきつかったと思われる。渡渉点の屈曲部はどうやって通過していたのだろうか。

落合(西俣沢と東俣沢合流点)にある木ノ俣発電所の先で道路が途切れる。 ここで軌道は左岸に渡っていた。左の写真右下の杭は当時のものと考えられる。2008年当時の対岸(左岸)の軌道跡の保存状態は良好であったが、2010年に左岸側斜面が崩落して土石に埋もれた。その影響で増水時に右岸側が削られて2017年訪問時には石積みが消失していた。

第1渡渉点(2008年当時)
第1渡渉点(2017年)


軌道が放棄された後に二段堰堤が築かれ、その上流に広くて長いゴーロが形成されて軌道跡が土砂の下となり、第二渡渉点の正確な位置は判らない。二段堰堤までは左岸側に軌道があり、ゴーロの左岸側に軌道跡が認められないので、このどこかに第二渡渉点があったと考えられる。コンクリート製の道路の一部のようなものがゴーロ上部の右岸側に存在する。

2段堰堤上流側のゴーロ(上流側から見た図)
ゴーロに残る人工物


ゴーロ区間が終わると右岸沿いに軌道跡が再び明瞭となる。

しばらく軌道跡は傾斜の緩い右岸側に続いており、部分的に今も渓流釣りが利用している。浸食で土砂が失われた場所で軌道の補強の様子を窺うことができる。軌道は単純に渓谷を削った粗雑な造りではなく、木材で路肩をしっかりと補強した上に土砂を敷いていたようである。

木材を繋ぎとめているボルト
軌道の補強


木ノ俣川ゴルジュ区間末端に在る大滝に近づくと右岸の傾斜がきつくなり、第3渡渉点で左岸に移る。橋脚の在る辺りの右岸側には軌道跡が認められないので、往時の右岸側の様子は不明である。

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第3渡渉点の橋脚(上流側から見た図)


第3渡渉点左岸側には大きなコンクリート製の擁壁が存在する。右岸側を進んできた軌道は左岸に移った後、一旦下流側に向かって高度を上げ、方向転換してさらに高度を上げて大滝を巻いている。擁壁は方向転換に必要な場所を確保する目的で作られたと考えられる。

第3渡渉点橋脚跡より下流側に在る擁壁
擁壁上から見る橋脚跡


軌道は大滝左岸側のルンゼ上部をぐるりと巻いてからゴルジュ区間及びヒツ沢合流点の先まで約1.5km左岸側に続く。途中、数箇所で崩落して軌道跡が途切れている。


軌道が現役の頃に建設されたと思しき古い堰堤がある。何故に一つだけ設けたのか理由は不明。当時、この堰堤直下に何らかの施設があったのかもしれない。

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ヒツ沢合流点よりも奥にある古い堰堤


断崖手前で右岸に渡渉する。中央に橋脚がある。左右の橋脚の保存状態は良い。

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第4渡渉点(上流側から見た図)


第5渡渉点は一見砂防堰堤のように見えるが両側に軌道が続くので橋であることは間違いない。

川の中央に向かって勾配がついている。元々の造りがそうなっているのか、それとも浸蝕・陥没して現在の姿になったものかは不明。

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第5渡渉点


第5渡渉点から木ノ俣取水堰までの区間は左岸側がしっかりと護岸されており、全区間中最も保存状態が良い。


現在の木ノ俣発電所の取水堰は1,277mピークの北北西に位置する。木ノ俣取水堰まで軌道跡は左岸側にあり、ゴーロの先では右岸側にあることから、第6渡渉点は取水堰上流のゴーロのどこかに在ったと思われる。

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木ノ俣発電所取水堰上流側のゴーロ


第7渡渉点は1,237mピークの北辺りに存在する。右岸側は石積みで補強された橋脚で、左岸側は低地であるため木製の橋脚であったようだ。軌道の敷設目的はこの一帯の両岸に広がる緩斜面で伐採した材木の搬出であった。緩斜面は1km以上の流程を持つので、左岸側に渡る橋は他にも複数あった可能性がある。この橋脚跡に至る前にも川原に板金類を見かける。

川の近くはチシマザサの藪が濃い。この辺りには当時の伐採痕や飯場跡が残っている可能性がある。

第7渡渉点橋脚跡
ボルトが生々しい。


左岸の軌道跡と護岸は次のゴルジュ区間の入口まで続く。第8渡渉点があったのか否か不明であるが、その先に伐採適地は無いため、実質的にゴルジュ入口が軌道跡の最終地点であると考えられる。

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第7渡渉点以遠の左岸に残る護岸


山野・史跡探訪の備忘録