上三依・熊野堂の尾頭道(江戸期)(2009年5月)

年月日: 2009年5月30日(土)

行程: −

関連記録@: 今尾頭道探索No.3(2006年5月)

関連記録A: 尾頭道(三依側)を辿る(2006年6月)

先日がり2さんによる熊野堂の尾根突端の遺跡と古い道筋の報告があった。いままで江戸期の尾頭道は尾頭沢の七滝が入り口と思い込んでいたが、熊野堂の尾根突端の遺跡と古い道筋の存在により矛盾が生じた。現場を見ていないのでどうも頭の中で情報が整理できない。

@道標の意味

最も悩ましいのが右あいづ・左(山道?判読できない。)と彫られた馬頭尊の存在だ。道標の存在を知って、最初に思い浮かべたのが会津中街道に残る「左板室・右山道」の道標のことだ。道標は三叉路のいずれかの方向から歩いてきた人に対するもの。「左板室・右山道」は会津から大峠を越えてきた人に対する道案内だ。熊野堂の道標には「右あいづ」と彫られているのだから会津から来た人に対するものではない。下野から会津西街道を北上して会津に向かう人に対するものでもない。つまり塩原から尾頭峠を越えてきた人に対するものであることは確かだ。

このことから、馬頭尊の道標の意味が成立するには

1) 現場には3本の道跡が接続している。そして、

2) 道標は塩原から向かってくる道の正面を向いている。

という2つの条件を満たすことが必要だ。

A尾根突端に遺跡がある理由

がり2さんの報告によると塚のような盛り上がりがあるという。峠というほどの場所ではないので、何故にその場所に石仏が置かれているのか理由が判らない。祭祀に関する施設が置かれていた可能性がある。

B尾根突端に街道が上がる理由

尾頭沢右岸尾根には道がない。明治の尾頭道は、人力車の通行を可能とすべく道路勾配を低く一定に保つために無理してうねうねと険阻な山肌を這うように建設したものであって、江戸期の人間の発想・土木技術では不可能な道筋である。尾頭道が尾頭沢沿いにあったとするならば、何故に尾根突端に上がる必要があるのか。尾根突端にはAで提起した疑問の解(何か特別な施設)があったのではないのか。尾根に上がるといってもせいぜい20m程度の登りだし、尾頭峠越えのトラフィックのほとんどは会津方面に向かったはずであるから単に近道しただけだったのかもしれない。

C尾頭沢は本当に通行可能だったのか

これは@とBの前提となる条件である。

以上、4点を確認する目的で、元同僚との釈迦ヶ岳登山を終えた後で、単独で上三依に向かった。

上三依の一里塚や七滝の道祖神を見たことはあったが、がり2さんの報告に掲載されていた熊野堂の存在は知らなかった。てっきり地図には載っていないお堂を見過ごしていたと思い込んだ。場所が判らないので先ず一里塚の方に歩いていったが、何もない。???。次に上三依水生植物園に行ってみると、園内にがり2さんの報告でみた写真の建物があった。でも鳥居が立っているし、どうみても社であってお堂ではない。お堂の境内の一角に社を設置することはよくあるが、ここは社しかない。熊野堂神社とは変な名前だ。名前からするとお堂があっておかしくないように思うのだが・・・。

尾頭道の道筋とされる尾頭沢左岸沿いに歩き、沢を渡渉して沢底を歩いていった。沢底は広く平坦地が多く、出水時に荒れるので、仮にここに街道があったとしても痕跡は皆無。この点は今尾頭沢と同じようなものだ。

雨が降りそうにないので空身でそのまま遡行。尾頭大橋を潜って堰堤を左から巻いて先へ。

尾頭大橋(堰堤上から下流側を見た図)


尾頭大橋から上流は、2006年に明治尾頭道を歩いた際、尾頭トンネルに戻る途中シェルターから降りて少しだけ検分したことがある。伏流となって涸れ沢のゴーロが続く。幅の狭いところでも20〜30m程度はありそうで歩きにくいところはない。

沢は水量乏しく、ゴミの多い汚らしい沢だ。滝らしいものはこれだけ。


長年川の流れが変わっていないと思われる区間では右岸側に平坦な道跡が続く。もし沢沿いに街道があったとしたら、今歩いている場所が街道跡である可能性が高い。尾頭沢橋の橋脚建設で分断されて、その先はやや不明瞭だ。

尾頭沢橋


程なく尾頭トンネル前の駐車場下を通る。ゴミだらけ。小学校の英語教育なんてどうでも良いから、もっと情操教育とかマナーの教育をしたほうが良いんじゃねーの?

ダイクラ沢橋


ダイクラ沢橋を潜ってトンネル出口に抜けた。この結果、尾頭トンネルまで沢底は平坦地が続き通行に支障が無かったことが確認できた。江戸期尾頭道の尾頭トンネルから尾頭峠までの区間は送電線鉄塔の巡視路として現役である。課題Cが片付いて@とBの推測の前提条件が成立。

国道400号を下って、屈曲点から尾根突端に向けて降りる。がり2さんの報告にあったように不自然な盛り上がりが幾つかある。石を積んであるので、建物の礎だった可能性がある。そして周囲には極めて古いものだが、かつて大木があった痕跡が残っている。石仏が存在することから、ここにはかつてお堂のようなものがあったのではないだろうか。これが熊野堂?割れた石仏を針金で巻いて補修してあるので、おそらく上三依にはこの存在について詳しい人がいると思われる。私は郷土史家ではないので、課題Aの推察はこの程度で留める元禄八年にこの場所に大聖不動明王の仏堂を再興したという記録があるので、礎石は仏堂の跡と考えられる。詳細はブログ「がりつうしん」を参照されたし。


上の写真の石像の前に一本の窪み(道跡)があり、右手(東側・尾頭沢側)に少し下ると@で予想した通り三叉路があり、道しるべの馬頭尊が東側を向いている。

画像
馬頭尊(道標)


この手の勉強が足りないので、左が何と彫られているのか良く判らない。とりあえず左の道(トップ図の尾頭沢側の点線)を辿ってみた。七滝の道祖神を見下ろすように突端部を回り下り、畑の見える場所で二手に分かれる。左側は七滝の畔に出て、右側は畑の北端の林に向かう。

今度は尾頭沢奥に下っていく広い道跡を追ってみた。こちらは街道といえるレベルの幅を持ち、国道400号の下をかすめてゆるやかに尾頭沢に降りた。よって、江戸期の尾頭道はやはり尾頭沢底にあったようだ。

Bの課題をクリアするにはもう一つの道の行方を確認すれば良い。右あいづの道を辿るとつづら折の道に引き込まれる。しかし、この道は左?の道に合流してしまう。つまりどちらも畑に下りてしまうのだ。これでは道標の意味がない。しかも街道と呼べるような風格が備わっていない。街道跡とはいくら藪化していても不鮮明であってもそれなりの風格が備わっているような気がする。会津にちょっと近道するつもりなら緩やかに高度を下げて北に向かうはずだ。そう思い斜面を注視すると、在った!一部国道400号建設で途切れて、しかも藪化しているので簡単に追えないが、道跡は徐々に高度を下げていく。そして真っ直ぐ一里塚手前の石仏群に達している。

画像
一里塚手前の男體山、湯殿山


これで謎解きがほぼ完了。尾頭道は七滝を通らずに尾根突端に上がって会津方面に近道していた。もちろん一部のトラフィックは南に向かっていたはず。その人達は七滝を経て会津西街道に抜けたと考えられる。

江戸期の尾頭道


一里塚に抜けた途端に雨が激しく降り出した。よい時間帯に歩けたようだ。短時間(2時間程度)ではあるが今年一番の楽しい謎解きでした。

山野・史跡探訪の備忘録