石筵川・銚子ヶ滝(2009年10月)

年月日: 2009年10月4日(日)

行程: 母成グリーンラインの駐車場から往復

安達太良山系は沼尻の白糸の滝、達沢(現地発音:タッツァワ)の不動滝、湯川渓谷の三階滝等の名瀑を有し、いずれも観瀑は容易だ。和尚山から流れ下る石筵川にも銚子ヶ滝なる優美な滝があるとのこと。

母成グリーンラインから和尚山経由で安達太良山に登る道があり、その途上で銚子ヶ滝に立ち寄れるようになっている。もっとも、ここから安達太良山に向かう登山者は少なく、ほとんどのハイカーは銚子ヶ滝までの往復。案内板も安達太良山登山口ではなく、銚子ヶ滝入り口と書かれている。標高770mの母成グリーンラインの駐車場から、ダラダラと150m登ってから沢に90m下るだけで良いので、父を誘ってでかけた。

銚子ヶ滝入り口の案内板は沼尻側から母成グリーンラインを下っていくと見過ごしてしまう。料金所跡まで行って引き返して見つけた。石筵側から登っていくと左側に駐車場がある。

道路を渡って遊歩道を歩き始めてすぐに石筵のふれあい牧場から上がってくる林道に出る。次の案内板までしばらく林道歩き。事前にウェブで見た情報ではこの林道は未舗装で狭いとのことであったが、現在は舗装整備されており幅も広い。この道路にも銚子ヶ滝入り口の案内板がある。駐車スペースは数台分しかないので、観瀑者の多い季節は母成グリーンライン側の駐車場利用をお薦めする。林道の続きの破線が母成峠に真っ直ぐ向かうので、林道は昔の母成峠の道筋そのものなのかもしれない。

石筵ふれあい牧場から続く林道にある遊歩道入口


遊歩道はよく整備されていて歩きやすい。かつて人の手が加えられた山域らしく、赤松の木が多く見られる明るい疎林である。土塁が残されている。ということは昔はここまで放牧場があったということか。母成峠は戊辰戦争の激戦地。母成の東軍殉難者慰霊碑にある地図に拠れば、東軍は銚子ヶ滝の近くにも鹿砦を築いて間道となり得る昔の登山道も全て押さえていたようなので、その跡地である可能性もある。

谷への下降路は手すりと階段が整備されている。滝も良いが下流の大木が鬱蒼とした渓谷の雰囲気も良い。


銚子ヶ滝は二段滝であるため釜と呼べるほどのプールはない。地元にとって雨乞いの滝であったとのこと。現地に説明板有り。噂を聞いて観瀑に訪れる人は少なくないようで、帰りに普段着のカップルや家族連れと何組かすれ違った。ある男性に、「滝、本当にあります?(親指と人指し指で隙間を作って笑いながら)まさかこんなんじゃないよね?」と問われた。

帰りに母成の東軍殉難者慰霊碑に立ち寄り。母成峠は戊辰戦争の趨勢を決した激戦地の一つであり、大鳥圭介や土方歳三らも参戦していた。会津藩以外に新撰組や二本松藩、唐津藩も戦死者を出している。戦後、西軍は東軍の死者の埋葬を許さず、遺骸は野ざらしにされていた。近隣の住民がひそかに遺骸を集めて埋葬したが、昭和53年に発見されるまで長くその存在は忘れられていたという。母成峠における西軍を指揮していたのは土佐藩の板垣退助らである。日本の偉人の一人とされている板垣退助だが、この母成における鬼畜の如し所業からは明治維新の高邁な精神など微塵も感じられない。小生、先祖が代々百姓だから戊辰戦争における西軍に対し恨みの感情はない。明治維新は人類史上稀に見る偉業であったと思う。しかしながら、何故に大政奉還以降に戊辰戦争なる日本最大の凄惨を極めた内戦を行う必要があったのか。明治維新は西軍の指導者達の本当の人間性と併せて語られるべきであるし、戦後の敗者に対するむごい仕打ちも糾弾されるべきである。

山野・史跡探訪の備忘録