高原山・法楽寺縁の道筋

その1: 2010年1月4日(月)

行程: 寺山観音寺(13:35)〜505m地点(14:11)〜舗装林道〜寺山観音寺(14:38)

怠惰な性格なもので、年が明けて帰省先から戻ってから慌てて年賀状を書くことが多い。そんなことを続けていればいつか1枚も来なくなりそうなものだが、小生のごとき者にも年賀状を下さる方が結構いる。午前中になんとか年賀状を書き終えた。天気が良いので、郵便局に行ったついでに、川崎に戻る前に午後から少し探索にでかけた。

行き先は矢板市長井地区にある古刹・寺山観音寺(正式名称は与楽山大悲心院観音寺)である。この寺の存在を知ったのは、1998年12月30日に初めて高原山を歩いてミツモチ以遠の青空コースにある案内板の説明文を読んだ時のことであった。奈良時代に高原山で山岳仏教が栄え、あの高みにかつて法楽寺なる寺があったが803年に落雷で焼失し、焼け残った観音堂を806年に麓に移したのが寺山観音寺の興りであるという。観音堂を移す際に荷を引く牛が動かなくなったので、その場に現在の寺山観音寺を築いたという言い伝えがある。奈良時代に既にミツモチ以遠まで尾根上に牛が通れるような道があった可能性に強く興味を抱き、その後の一連の高原山探訪のきっかけとなった。

地形図では中川と宮川支流の枝持沢の間の尾根上に寺山観音寺をかすめるように破線が記載されている。破線路は最後に枝持沢に下って育樹祭会場跡に向う舗装林道に接続する。枝持沢からミツモチ尾根に上がる道筋が不明であるが、ミツモチに至る尾根上にも車道が建設される以前の道が部分的に残っている。言い伝えの通りに寺山観音寺が昔の道筋に建てられたとするならば、この破線路が奈良時代に用いられた道に由来する可能性が大だ。麓なのでいつでも行けると思って探索を後回しにしているうちに10年以上経ってしまった。

8年振りに寺山観音寺に参拝

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寺後方の墓地を抜けた高みには広範囲ではないがモミやスギの大木が残されている。栃木の里でこれだけの大木が残る場所はめずらしい。

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周囲は比較的良く手入れされたスギ植林地帯や雑木林であり、光が入るので少々薮がうるさい。尾根上を適当に進んでいくと、雑木薮と植林の境目で、寺山観音寺の南側から延びる地図上の破線路に出合った。広くて深い溝である。栃木県の安蘇や八溝でよく見かける廃道と同様に、長い間材木の搬出に用いられた歴史が滲み込んだ道だ。


道跡のほとんどは間伐材が倒れこんで廃道状態。尾根の上手から延びて来る現役の作業道が並走し、尾根幅が狭い場所では下の写真の如く部分的に現役である。


植林地内に祀られているの新しい石造りの祠(最近流行のスタイル)以外には祠や馬頭観音の類を見かけなかった。伐採されたばかりで大間々が望める505m地点から中川側斜面の舗装林道に下り、舗装道路を歩いて寺山観音寺に戻った。以前は行き止まりの林道であったが、現在は林道赤滝線として貫通している。うっすらと積もった雪の上には猟犬を伴なった猟師の新しい足跡があった。この探索の続きは禁猟になってからすることにしよう。

帰りに車を運転していて気づいたことが1つ。寺山観音寺から長井地区に下る舗装車道は場所によっては数mも抉れており、辿った道筋そっくり。この車道は古道そのもので、元々抉れていた道を舗装化しただけのようだ。

その2: 2010年3月21日(日)

行程: 林道赤滝線・505mポイント北東のカーブ・標高455m出発(14:40)〜育樹祭会場(15:55)〜(舗装林道)〜車に帰着(16:44)

南関東では強風が吹き荒れたようだが、栃木の平野部の天気は比較的穏やかであった。午後2時過ぎて空が澄んできたので前回の探索の続きにでかけた。デジカメは単身赴任先に置いてきたので携帯電話で撮影。

前回林道に下った場所から尾根に上がった。

抉れた道を辿る。部分的に現役の未舗装林道であったり、未舗装林道と並走したりしながら起伏の緩やかな尾根上の植林地帯を行く。


林道に軽トラックがいたので植林の中を迂回してパス。再び上がった尾根上には未舗装林道はなく、旧い抉れた道跡のみが在り、しばらくこれを辿ると枝持沢沿い舗装林道と中川沿い舗装林道(赤滝線)を連絡する切通しに至った。そしてその反対側にも抉れた道跡がある。これは枝持沢の支沢に接続することになっている地形図の破線とは異なる道だ。


道跡は標高500m付近で約数十m舗装林道と重なり、再び道路右側に現れた後は舗装林道と完全に別れて尾根上を維持し、最後は育樹祭会場跡直下の三叉路付近(標高690m)に出る。DQNの車の音がうるさい。折りしも降雪が激しくなり体も冷えてきたので、ノンストップで林道を下って帰着。

期待した通り、長い間山仕事に用いられた旧い道筋が一貫して尾根上に続いていることが確かめられた。この先、少なくとも標高750mの育樹祭会場入り口(下塩原矢板線と県民の森の連絡路)までは舗装路建設で道跡が消失していると思われるので、次回は標高700〜900mの勾配のきつい区間を探って最後とするつもり。

その3: 2010年6月19日(土)

行程: 育樹際会場に下る三叉路から大間々に至る舗装林道と交差する場所まで

大間々から尚仁沢右俣、桜沢を周回した後、大間々の駐車場では着替えができないので濡れた衣服のまま山を下り、ついでに旧道探索しようと育樹際会場に下る三叉路へ移動。育樹際会場に下る道は尾根の西側斜面にある。ということは植林された尾根上に旧い道筋が残っている可能性大だ。

三叉路で尾根が分断されている。今回の探査の目的は旧道が三叉路より上方に伸びていることを確認すること。よって、写真右側の看板の辺りから尾根を辿ってみる。


入っていきなり明瞭な旧い窪みがみつかった。あとはこれを辿るだけ。ミツモチ方面に向かう林道と交差もしくは重なる地点まで、探索わずか10分程度。雨がパラパラ降っているので、その後の道筋を追うのは止めた。

その4: 2010年7月17日(土)

行程: ミツモチに至る林道・標高775m出発(15:15)〜第二展望台・標高約950m(15:47)〜ミツモチ山まで0.9km地点で折り返し・標高約1,100m(16:24)〜第一展望台・標高870m(17:04)〜車に帰着(17:20)

土曜日の天気予報が冴えず川の水位も高止まりしそうなので、土曜日はアユ釣りしないことにして金曜夜はイカリ針巻きながら全英オープン見て夜更かし。起きてみると梅雨明け宣言が出ていた。昨日まで栃木県北部は雨の予報だったはず。梅雨明け宣言は早いんじゃないかい?すっきり晴れることはなさそうなので、午前中は新しい仕掛け作りと庭の草むしりをして過ごし、午後2時過ぎて車のガソリン入れついでに川見を兼ねてぶらっと高原山方面にでかけた。平水の箒川ではアユ釣り可能だったようである。

日光地域に大雨警報が出ていた。高原山は雲に覆われてどんよりとしてはいるが大雨が降りそうには見えない。AMラジオにサージ音が入らないので雷に遭うこともないであろう。法楽寺縁の道筋の未探査区間を歩いてみる。

前回は尾根上の道筋がミツモチに向かう林道と最初に交差する場所(標高775m)まで辿ってみた。寺山観音寺からここまで昔の道筋は一貫して尾根上にある。峠道ではないので、その先もできるだけ勾配の緩い尾根筋を維持しているはず。よって、標高775mから1011m地点北西の鞍部の間では道筋は林道と交差することはあっても重なることはないはずだ。これまで辿った区間は林業関係者によって利用されてきた道であり、植林が始まる以前の道そのものではない。今回探索する区間の広葉樹林帯にはきわめて古い道の痕跡が残されているかもしれない。

林道と最初の交差地点から林道沿いに数十m進んでから尾根に上がった。歩き出していきなり雷がゴロゴロ。落雷するような場所ではないので歩き続行。ここも古い窪みが明瞭であり、辿るのは容易である。ところが、窪みは勾配がきつくなる標高810m以上の区間でまっすぐ上方に延びている。これは道跡ではあり得ない。一旦窪みを無視して尾根筋の北側の勾配の緩そうな場所から再び林道に上がった(標高825m)。

もし道があったとするならば直登ではなく何度か折れ曲がって高度を稼いでいたはずだが、林道より上部の広い植林斜面を見渡しても道跡らしきものは視認できない。同じ高度を保って数十m横移動してみても道跡らしきものは確認できなかった。南側に移動して尾根筋に至ると明瞭な土塁が存在する。土塁の両側は土塁を築く際に掘り下げたために道のようになっている。植林地帯でしかも土塁があるということは、尾根の南側が昔の放牧場の一角であったことを意味する。この土塁に沿って少し登ると、土塁が分断されている場所があり、道跡が土塁の北側から登ってきて尾根の南側に回りこむ。植林時に用いられた作業道の名残りと思われる。北側に道跡を少し追ってみたが、ミヤコザサに覆われた道跡の北側は不鮮明であり、足裏の感覚でやっと確認できる程度。数十年前の作業道であっても不鮮明になってしまうのならば、さらに昔の道跡を期待するのは無理だ。作業道を辿って尾根(地形図の矢板市の板の字がある尾根)を登っていった。


傾斜地の植林は間伐が不十分で表土が流失し丹沢っぽい雰囲気。古い作業道は植林地帯の最上端である標高900m付近で終点となる。その先に明瞭な窪みは存在しないものの、周囲と微妙に平坦度が異なる場所が続く。この辺りはミヤコザサでもスズタケでもない矮小な柔らかい笹に覆われて雰囲気の良い場所だ。


尾根上にはまだ土塁が続く。


標高920mの広い平坦地はどこを歩いても同じようなもの。適当に高みを目指すと高い樹木の無い明るいツツジの藪が出現。藪を潜りながら進むと白い人工物が目に入った。土嚢だ。こんな場所に遊歩道があるとは知らなんだ。いったいどこから上がってくるのだろうと思いながら十数m遊歩道を辿ると第二展望台に到着。


第二展望台傍らに面積の狭いツツジ園地なるものがあり、出合った遊歩道はその周遊道であった。1998年に少年自然の家(現存せず。)から八海山神社まで往復した時に第二展望台を見ているはずだが、ツツジ園地については記憶が無い。靄ってボンヤリとではあるが、展望台から那須野ヶ原方面を見ることができた。

第二展望台から再び土塁を辿ってみた。送電線(沼原線)が跨ぐ場所は最近人の手が入って土塁の樹木が部分的に伐採されている。程なくして巡視路に出合ったので、これを辿って林道に復帰。

林道を歩いて奥に向かう。1011m地点南側の斜面にはカラマツの木が多い。植林されたものかどうか不明であるが、広葉樹と混じって一見雑木林の様。標高1101m地点北西の鞍部は広場になっている。広場から広葉樹林に入って1011m地点方向に向かって、地形から道筋を推測し足裏の感触で確かめながら100m程度歩いてみた。広場から数十m奥にある広い水溜まりの南側を通って1011m地点方向に向かう道が存在していたようである。

広場に戻り、尾根上をクネクネ走る林道を串刺してミツモチに向かう遊歩道を歩いてみた。


ミツモチ尾根にはナツツバキ(シャラ)の木が多く、遊歩道のそこかしこに白い花が落ちている。この時期にキャンプ場からミツモチに登る者はおらず、足跡は皆無。仮に登る人がいたとしても、曇天の日に午後4時過ぎにここで人に遇う可能性はまず無い。曇天のおかげで直射を浴びることなくアブも少ないので快適。

標高が上がると霧で視界が悪くなった。短時間の探索の予定で空身で来たので喉がカラカラ。10分程度歩いて、ミツモチまで0.9km地点で引き返した。


ヒグラシの声が響く中、林道と遊歩道を利用して第一展望台を経由して順調に帰着。


4回に分けて法楽寺縁の道があった可能性の高い尾根筋を辿ってみて得られた結論は、

@ 法楽寺縁の道が尾根上にあったことを否定も証明もできない。全て昔から人の手が加えられた区域であるため、仮に昔の道筋が残っていたとしても特定することは困難。

A 勾配的に(物理的に)寺山観音寺から続く尾根筋を辿ることは容易。昔の道筋としては現存する林道や遊歩道よりはるかに合理的である。

徹底的に調べ上げたレポを公開することを否定するものではないが、自分の嗜好には合わない。理由あって廃れたものの詳細を白日の下に曝してしまえば、謎や未知の醸し出す独特の雰囲気は失われ、もうそこにはただ道跡が横たわるのみ。欲求に突き動かされるがまま、可能性(物理的に可能か否か)、合理性(何故にそこにあるべきものなのか)や変遷についてあれこれ推測しながら山中を彷徨うことにこそ楽しみを感じる。その意味において、一連の法楽寺縁の道筋探索は自分本来の嗜好に合った楽しい一時であった。

山野・史跡探訪の備忘録