房総丘陵ハイキングその1(久留里城址〜千本城址〜亀山ダム)

年月日: 2014年1月5日(日)

青春18切符が使えるのは1月10日まで。6日から10日まで出勤であるため自分にとっては5日が最終日。2014年は房総半島で初歩きしようと思い、国土ポータルの地図を見ながらできるだけ長く鉄道に乗れて駅と駅を結ぶルートを物色。外房線の安房天津駅から清澄山〜元清澄山〜三石山を経て久留里線の終点・上総亀山駅まで歩く計画を立てた。

武蔵野線・武蔵浦和駅 04:58発 に乗るべく自宅を出たのだが、カメラを持っていないことに気付いて自宅に戻ったため間に合わず。次の便では現地到着時刻が遅くなるので外房線側から歩く案を放棄し、上総亀山駅から鴨川方面に(逆方向に)歩く案に変更。逆コースの時刻も調べてあるので何ら問題ないはずだった。

久留里線に乗ったところまでは順調。終点で降りたはずだったのだが、目的の方向に歩き始めて現地の道路と地図が全く合わないことに気付いた。向かっている方向に亀山湖なるものがあるようには見えない。線路がさらに南に続いているし、先ほど自分が乗ってきた電車が走っていったのだから、終点ではなくて途中下車してしまったということだ。では俺は今どこに居るのか?何でこうなった?

駅まで戻って、降りた場所が久留里駅であったことを確認。久留里駅が終点でないことは認識していたはずなのに・・・・。久留里駅に停まる旨のアナウンスが何故か”次は終点・・・・”と聞こえ、数少ない乗客全員が降りたものだから終点に着いたと思い込んだ。外国でもこんな失敗したことないぞ。これで本日の計画遂行を断念。

久留里駅周辺の地形図を持っていないので近くで山歩きできる場所があるか不明。仮に持っていたとしてもこの辺りでは駅と駅をつなぐ山歩きはできそうにない。このまま久留里線に乗って戻るしかないのか?

駅前の案内で近くに久留里城址なる史跡があることを知った。久留里線の終点を見ずに帰るのは癪だから、国道410号線沿いに終点・上総亀山駅まで歩いてみよう。そのついでに途中の久留里城址に寄ってみる。

久留里城址を指し示す案内に導かれ御屋敷地区で国道410号線を逸れて久留里城址に向かう。城山隧道手前から二ノ丸に向かう古道に入ってみた。案内には歩道として整備していないため荒れていると記されているが、途中までは神社の参道であり歩き易い。

歩道入口
城山新明社


神社の正面左から神社の後ろをぐるりと回って隧道の上を南に向かう。なるほど、この辺りはアズマネザサの藪を刈払ってあるだけ。

画像


植林の中を適当に進むと遊歩道に抜けた。

小櫃川が形成した平地に面する高度差50m〜100mの細長い尾根を快適に進んで君津市立久留里城址資料館の在る二ノ丸に向かう。

画像
波多野曲輪から見る山麓の近世居館部


久留里城址資料館に説明があったかどうか記憶が無いのだが、Wikipedia によると16世紀末に居城した松平忠政が平野部の城下町の基礎を築いたらしい。久留里城が本来の山城として機能していたのは里見氏が北条氏と戦った戦国時代だけであるはず。その後はどのように使われていたのか。

画像
復元された二層の天守閣


現在の天守閣はオリジナルの天守閣の基礎の横に建てられている。入る価値はなさそうなのでパス。本丸の奥に、明治の廃藩まで存続した久留里藩・黒田氏に関する石碑が建っている。明治に廃城となって以降、城跡は荒廃し、黒田氏が代々祀る神様のみが残されていた様子等が記されている。昔の本丸への登城路が整備されていないのが惜しまれる。

二ノ丸に戻った時には久留里城址資料館が開館していた。入館時に訪れた人の住む地域や交通手段アンケートを求められた。定型フォーマットで提示されたものから選択を迫られる場合、ぴったり当てはまるものが無い場合が存在するから困る。老眼でうまく字が書けないのでフリーフォーマットでたくさん文字を書かされる場合も困る。要するにアンケートが大嫌いなのである。自分の場合の交通手段は電車なのか徒歩になるのか迷っていたら、トロいオヤジと思われたらしく、受付の女性が紙を取り上げて「電車ですか?」と聞いて勝手に記入してしまった。展示内容は上総における戦国時代以降の豪族・大名の変遷や、上総堀り井戸等である。新井白石縁の地であることも初めて知った。

山城部分の面積は決して広くはないが、尾根上にあるために分布範囲が広く散策に良い。偶然訪れたもので全てが新鮮で、思いがけず楽しいひと時を過ごすことができた。これこそ自分が好む行き当たりばったりの面白みの極致である。

国道410号線を南下していくと上総松丘駅に至る前に広岡地区で新たな城址案内に出合った。これもおいしそう。

集落の中の一本道を山麓まで進むと千本城址(北野神社)の入口案内が在る。国道410号線から千本城址への登り口まで駐車スペースは一切無いので、車では入り込まないのが無難。

画像
千本城址入口(北野神社参道)


最近誰かが歩いたような形跡はなかった。参道は直進する深く抉れた昔の道型から別れる。途中から舗装されており、植林された山腹を左斜め上に向かう。最後に朽ちかけた木製土留めの階段を登って尾根上の掘割の北側に上がり、北野神社に至る(地形図の157mポイント)。

画像
北野神社


現地にあった北野神社の由緒によると、

創立年度は不詳であるが古老の口碑によれば長享二(戊申)年に里見刑部小輔(義實)が創立したとなっている。本社の境内は元里見家の城址で要害と謂われる処で、東北に新郎という地があり、北方には断崖があって八反崖という。そして、東南には、兵庫谷という地があり、武器を入れた倉庫の趾がある。

北野神社の裏側に広葉樹とまばらなアズマネザサの藪に被われた平坦な場所が続き、その北北西の端が急峻な斜面を持つ。これが八反崖であろう。その北東側に数m低い植林された広い場所がある。南に向けて開いた自然の浅い窪みに手を加えて方形にしたような形跡が認められる。これが新郎に相当するのかどうか判らないが、ざっと探索した限りではそのさらに先の低い場所は城址とは関係なさそうに思えた。

帰りに掘割の南側がどうなっているのか探ってみた。

北野神社南側の掘割

北野神社南側の掘割
さらに一つ隣の掘割


尾根伝いの侵攻を防ぐ掘割らしき遺構はあるが、掘割近くの尾根幅は狭く曲輪に相当する場所は存在しないし、尾根伝いに移動するのに適した道跡も見当たらない。本当にこれだけなのだろうか。この辺りの山は皆似たような構造で、南側にも北野神社と同程度の標高の場所が見えているので、堀割の先にも城址が分布している可能性がある。参道入り口近くまで戻って、現在は使われていない古い抉れた道跡を辿ってみた。

ヒタヒタと薄く水が流れる道跡は大きな掘割に至る。

画像
最大の掘割


尾根の反対側には何もなさそうなので尾根の南側に上がってみると、明瞭な道跡が南の平坦な広い台地に続いていた。台地の南側は植林されている。中央部は明らかに人為的に均された平坦地でアズマネザサに被われた疎林となっている。そして周縁は急峻な傾斜を持つ。北の神社よりもこちらの方が要害に適しているように思われるのだが、現地には案内の類は皆無である。

千本城址に関して城址研究家の詳細なレポ(http://otakeya.in.coocan.jp/info01/senbonmine.htm)があるので参照されたし。このレポによれば、私が探索しなかった北東の広大な地域にも城址らしき遺構があるとのこと。私が最後に行った南側の広大な平坦地(萩の台)に関する考察もされている。地名の出自が記されていないのが惜しまれる。

平坦地の西端部から続く照葉樹の尾根を下って国道410号線のトンネル南側に近道できるのだが、この時は周辺の地形図を所持していなかったので、民家の敷地に出る可能性を考慮して自重。

順調に亀山湖に到着。上総亀山駅で時刻表を確認して次の始発まで1時間弱余裕があったので、亀山湖をぶらり一周してみた。貸ボートが多数あるが、寒い時期にボートに乗っているのはバス釣りの連中のみ。個人的には亀山ダム堤頂から見下ろす小櫃川や崖に現れたきれいな地層が印象に残った。

亀山湖
川俣大橋


14:20分のワンマン始発に乗って順調に帰着。

亀山湖の周辺でヤマビル注意の看板を何度か見た。ヤマビルの出ない年末に再び房総半島を歩いてみたい。

山野・史跡探訪の備忘録