旧水府村にて(穴城、中武生、杉の上)

穴城(初回訪問)
穴城(再訪)と中武生の清水場
杉の上

資料1 「武生山と穴城(常陸太田市下高倉町)」
資料2 「武生林道 - TDCC LABORATORY」
資料3 「村影弥太郎の集落紀行」
資料4 今昔マップ on the Web
資料5 地図・空中写真閲覧サービス
    ① CKT757-C15C-7.jpg 1975/11/10(昭和50年)撮影
    ② CKT757-C13C-9.jpg 1975/11/10(昭和50年)撮影



年月日: 2022年4月30日(土)

2020年秋に初めて竜神川流域を訪問し、無数の険しい山襞が連なる山中に人家が存在することに衝撃を受けた。奥秩父の山上の集落とは異なるタイプの秘境といえよう。武生山と役小角や坂上田村麻呂との関り等の由緒は怪しいが、少なくとも鎌倉時代の頃からアクセスする道があったことは確かだ。今昔マップに拠れば、林道・武生線の原型が開通する以前は、その奥に孤立する人家にアクセスするには細い山道を辿るしかなかった。

中武生と下武生の間に穴城なる地名があり、地形図上は家屋が2戸表示されている。2020年秋に中武生山から林道・武生線を歩いて下武生に戻ってくる途中で現役の車道らしきものの分岐を見ていない。南の下武生との間には谷が切れ込んでおり、下武生から直行する道があるとは思えない。尾根上の山道から下るのが唯一のアクセス方法であったであろう。

地形図では人家の周辺に畑マークが記載されているが、グーグルアースで人家らしきものの存在も裸地も確認できないので、放棄されて久しいと思われた。ウェブ上で得られる穴城に関する情報は城址マニアが410m級ピークを探った記録(資料1)のみで、家屋に関する情報はない。「穴城」とは信州の小諸城の特徴の代名詞であるらしく、大手門より本丸が低い位置にあることを意味する。林道・武生線を大手門とすれば、家屋の位置はまさに「穴城」。小諸城にちなんだ地名であることは間違いない。城址マニアが此の地に目を付けるのも納得がいく。

一度現況を確認してみたいと思うものの、現住所からわざわざそれだけのために時間かけて訪問する気になれず、遠出を控えていることもあって実行に移す機会がなかった。山田川沿いに北進して棚倉構造線(断層)に沿う長く直線的な地形を見てみたいと思っていたので、春の連休に帰省するついでに少し遠回りをして此の地を再訪してみる。林道・武生線に進入するかどうかはその時の気分次第。

那珂川沿いの国道123号経由で常陸大宮を経由し、293号から山田川沿いの県道に順調にスムーズに抜けた。お天気良く、藤の花が満開で気分上々。途中に、東金砂山への入り口を見て、今年の大河ドラマで知った西金砂山がこの近くにあることを知る。頼朝軍はこんなところまで来る必要があったのだろうか。常陸太田を捨てて山奥の狭い砦に立て籠った佐竹なんて小物は放っておいてもよかろうに。鎌倉から何日もかけて何度も山川を越えて此の地まで遠征するには相当な兵站力を必要とする。真っ平らな地形のウクライナの地ですら現代の(でも時代遅れの)ロシア軍の兵站が儘ならぬのだ。旗揚げしたばかりの頼朝にこんなところまで来る余裕があったのかいささか疑問に思う。

さて、朝8時台に順調に現地に到着できたので林道・武生線に入ってみる。下武生までは道が狭くて緊張を強いられる。下武生から先は幅員があって快適。先ず、穴城の東側の450m級ピークを訪ねてみた。グーグルマップでは「山の御宮」と表示されている。この辺りは尾根幅が狭く、林道・武生線建設により尾根道があった稜線部が消失しているため、階段が設けられている。尾根道の跡は450m級ピークの東側を巻いている。この尾根道は、現在の林道・武生線が建設される以前は穴城や中武生の住民が下武生に出るための生活道であった。途中で山頂に向かう道が分岐する。

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この時点では山の神を穴城と関連付けて考えていなかったため、彫文字をよく確認しなかった。献灯の年代はたしか昭和だったように思う。祠から稜線上を北側に下っていく細い道跡があり、これを辿るとトラバース道に接続する。その先は林道・武生線の法面の際にあって危険であるため引き返した。

ウェブ情報では林道・武生線の正確な変遷を確認できないが、資料2に拠れば、遅くとも1987年には既に一般車両が通行できるレベルの林道が存在していたらしい(昭和52年(1977年)の地図には載っていない。)(2024/01/12追記、1975年の空中写真:資料5-①および②には武生林道の原型となった細い未舗装林道の存在を確認できる。)。「山の御宮」はかつて「高岩展望台」と呼ばれていた場所に相当するらしい。当時も山の神があったのかは不明。その後、理由は不明だが立ち入り禁止となり、現在の林道・武生線を整備したときに展望台が撤去されて「山の御宮」として開放されたようだ。

林道・武生線から穴城に至る入り口を探す。路肩側に閉鎖された比較的新しい家屋が存在する(グーグルアースで確認可能。)。その傍らから幅広の未舗装道路が枝尾根を下っていく。幅広の道は佐川家の墓地で終点となる。先に紹介した城址マニアも当然墓地を通過しているはずであるが、地権者に無断で入り込んでしまったことになることを危惧したのか、墓地に関する情報を一切載せていない。幅広の道は穴城に至る道として設けられたものではなく、近年になって墓地の整地を目的として重機を入れるために設けられたように見える。

墓地の先にも尾根上に山道が続いているが、墓地の手前から斜面をトラバースしていく細い道跡を辿ってみた。道跡は崖と杉植林地との際にあり、アオキと竹の藪が鬱陶しい。藪と道形の消失具合から、少なくとも過去十数年は利用されていない。

小尾根状の場所を少し下ると、狭いが平坦な場所に至る。道跡の続きを追えないが、小さな沢源頭部の向こう側に廃屋らしきものが視認できる。

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源頭部のアオキと竹の藪を回避して山側から接近。既に朽ちて崩れているのであろうとの予想に反して、グーグルアースで確認できないのが不思議なくらいしっかりした屋根を持つ家屋が現存していた。

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予想していたよりも大きくてしっかりした造りだ。土間があって太い梁を持つ。きちんとした設計に基づいて大工が建築した家屋で、寝泊りもできる内装だ。道路がない場所にどうやってこれだけの資材を運び入れたのだろうか。屋根は近代的な造りのトタン屋根だし、崩れてもいない。これらを総合すると、家屋を建築もしくは最後に改築したのは昭和後期、林道・武生線の原型が建設された後のことではなかったか。

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採光は基本的に障子に頼り、ガラス窓は障子戸の一部のみ。電気を引いた形跡はないし、(2023/05/03 訪問時に電気が引かれていたことを確認済み)、水道はない。生活水は下方の沢源頭部を流れるチョロチョロとした水流を汲んで運ばないと得られないから当然風呂もない。

かつては此の地で生活していたことがあったのかもしれない。しかし、戦前ならまだしも昭和後期まで電気も水道も電話もない場所で生活を営んでいたとは考えにくい。この地の農林業収入だけで周りから隔絶した場所にしっかりした家屋を建築するための資金を蓄えることが可能であったのかという疑問もある。普段麓で生活している裕福な人が、桧枝岐のような出作りのための別荘として利用していたのかもしれない。真相は如何に(後日、清水場や杉の上の定住跡を見て、実際に穴城に定住していた可能性も否定できないと思っている。電話がなくても生活は可能で、昭和40年代でも電話の無い家は珍しくなかった。事実、貧しかった我が家に電話を引いたのが昭和45年頃である。)。

家屋は枝尾根上の限られた面積をぎりぎりまで利用して建てられており、庭はない。家屋の西側下に存在する道形を辿ってみた。これを辿れば地形図記載のもう一軒の家屋に至るのであろうと期待したのだが、なだらかな植林斜面で道を追えなくなった。その先はただの藪で家屋らしきものを視認できない。出発前に横着してトレッキングシューズに履き替えてこなかったので無理したくない。410m級ピークに上がり尾根伝いに戻るべく適当にスギが植林された浅い谷を詰めた。地形図上ではこのあたりは畑マークが記されており、植林前は耕作地であったと思われる。

2つの410m級ピークの鞍部に上がり、東のピークに近づくと明瞭な道跡がピークの南側を巻く。ピークは人工的な構造を持たないので、穴城は城址の類ではないと思う。尾根道を進むと往路で見た墓地に至る。危険個所は皆無。

佐川家の墓の建立時期は、ざっと見た限りでは明治四年から昭和五十年代まで。現在も子孫が墓参しているようだ。戒名はない。

約100年に渡り、あの場所でこれだけ多くの人の営みを支えることが可能だったのだろうか?近年になって墓地の整地を目的として林道・武生線から墓地まで道路を拡幅したように見えるので、もし穴城が定住の場ではなかったとすれば、別の場所から一族の所有地のできるだけアクセスしやすい場所に墓地を設け墓を移転したということも考えられる。未舗装道路入り口の比較的新しい家屋もおそらくは佐川家と関連するものだろう。

穴城への建築資材の搬入等は、尾根上を辿って東側の410m級ピークを巻き、鞍部から緩斜面を下って枝尾根の西側から家屋に至るルートで行ったと推測する。往路で辿った細いトラバース道は、軽装備で外界にアクセスする近道として利用されていたと推測する。

以上の考察・憶測は的外れかもしれないが、その真偽の程はどうでもよい。穴城の現況を確かめることができただけで十分である。



年月日: 2023年5月3日(水)

初回の穴城訪問時は、カジュアルシューズ履いていたために藪歩きを躊躇して中途半端な探索となった。地形図には家屋が2軒記載されているが、自分が見たのは(おそらく東側の)一軒のみ。昭和52年修正の地図では1軒のみの記載だ。今年も田舎に帰省する途中で立ち寄って、2軒目の存在を確認してみる。

穴城以外にもうひとつ、確かめてみたいことがあった。「杉の上」地区には家屋が3つ表示されている。最初にこの地をグーグルアースで見た時の写真は落葉期に撮られたもので、安寺地区から下る渓谷左岸に廃屋には見えない立派な家屋が写っていた。現在は樹木の葉が茂っている時期に撮影した写真に代わっていて家屋の形が把握しにくいが、青い電線が引かれていることが確認できる。資料3の調査記録に拠ると、杉の上地区には住民がいないらしいのだが、電線が引かれているのなら今も人が住んでいておかしくない。地形図に家屋にアクセスする道の記載がないので興味が湧く。

現在の地形図には近くに実線が2本記載されている。1本は安寺地区から延びる林道、もう一本は林道・武生線の標高435m辺りから安寺地区を源流とする渓谷に向けて尾根を下る実線である。実線は沢底で杉の上を経由して上高倉町・坂下に向かう破線路と渓谷右岸の上流側に延びる実線に分かれる。実線は幅1~3m (軽車道)を意味するのだが、勾配的に実線のルートはあり得ない。実存しているとしても山道のはず。昨年は時間的な制約があって実線の入り口を確認したのみ。今回は実線の実態を探り、状況次第で破線路と住居跡を訪ねてみる。

先ずは穴城を再訪。2つの410m級ピーク間鞍部(【36.707988N,140.452764E】)からスギ植林の緩斜面を下る道が存在すると思っていたのだが、鞍部直下の勾配がややきつく、道跡らしきものは視認できない。前回訪問した家屋の在る小尾根を登降することは可能と思うが、小尾根稜線上にも明瞭な道は見当たらない。小尾根から緩斜面に降りて、前回退却した西側の場所に接近。地形図に拠れば2軒目は斜面上に在ることになっているが、家屋の建設場所としては不自然だ。どこかに小屋の残骸があるのかもしれないが、少なくとも住居ではなかったろう。西側の小尾根にも道はなく、家屋を立てられるような平場もない。現在地と前回訪問した家屋の間は竹混りのひどい藪。2軒目は存在しなかったと結論付けて、現存する家屋を再訪。

前回は家屋の内部に入り込まず、電気に関する確認がおろそかであった。東側がガランと開放状態になっており、危険を冒すことなく土間に入れる。天井には電線を這わす碍子があって、電球ソケットもある。重要なインフラである電気が来ていたのだから、人が居住していた可能性がぐんと高まる。

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家の裏(山側)に人1名通れるくらいのスペースがあって、そこから上方に向かう道がある。補強の石垣と平場があって、完全に潰れて朽ちた古い家屋らしき残骸を確認した。この平場から小尾根西側の旧耕作地(現在はスギの植林)に向かう道らしきものがある。小尾根東側に向かう道が存在するのかどうかは未確認。スギ植林の緩斜面を移動して往路に復帰。

穴城再訪の結果
① 2軒目の存在: 確認できず。
② インフラ: 電気が引かれていた。
③ 建築資材搬入ルート: 不明のまま

2024/01/12追記・訂正、1975年の空中写真(資料5-①)で2軒目の建物が確認できる。当時既に旧耕作地が若いスギ植林地になっているので、穴城の居住地が放棄されたのは1970年頃と推測する。武生林道から穴城へのアクセスルートは、初回訪問時に辿った道筋以外に確認できない。

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フデリンドウ


第2の目的地に移動。実線路入り口(【36.719083N,140.447867E】)にロープが張られている。最近車が侵入した様子はない。入り口付近は勾配が無く幅広な未舗装林道のように見えるが、徐々に山道っぽくなる。尾根上正面に430m級のピークがあり、道はその右側(南側)に回り込む。ピークの上に祠が建立されており、その反対側に下る道はない。この時点で地形図の実線路の記載が全くあてにならないことが確定。

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ピークから下ってそのまま尾根を直進すると、ピークを回り込んできた細い山道と出合う。

山道が回り込んできた方角には茨城県が巨木指定してもよいくらいの立派なカシの大木(【36.719685N,140.449476E】)があって、その下方に広い平坦地があり、廃屋が見える。現在の地形図には記載がないため、その存在を予期していなかった(昭和52年修正の地図には記載されている。)。山道探索の前にちょっと寄り道。

現存する家屋は東西に横長で、自然の地形を利用したユニークな造りをしている。

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ここにも電気が引かれていた。この住居跡の最大の特徴は蛇口の存在である。たしか2か所あったように思う。公営の水道がない場所だから、蛇口よりも高い場所に自前の貯水施設があったはず。

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敷地の東端に蔵のようなコンクリートブロック造りの建造物がある。これが貯水施設なのかな?建築資材を昔の山道経由で現地に運び入れたはずはないから、林道・武生線の開通以降の建造物だろう。

家屋の前から奥に続く道を辿ると、齋藤家の墓地に至る。最も古い墓の年代は江戸時代である。墓石の数が少ないのは転出地に近い場所に墓地を移したためであろう。實相院(茨城県神栖市?)住職の書による碑文から得られる情報は以下の通り。

① 行政上の住所名: 大字上高倉中武生清水場
② 転出時期: 昭和52年(1977年)
③ 墓地の移転時期、移転先: 平成4年(1992年)、常陸太田市営 瑞竜霊園

清水場というからには清水が湧き出る場所があったということなのか。この辺りの地質は全て角礫凝灰岩で清水が湧き出るような透水層はないと思うが、真相は如何に。ひょっとして民家の下を潜って下っていけば何かあるのかもしれない。

転出したのが1977年であるならば、コンクリートブロック等の資材はもっと前に運び入れたことになる。旧来の山道経由で成し得たことではないから、林道・武生線の原型が1960年代には既に存在していたということだろう。戦後の窮乏の時期とそれに続く高度成長は日本の豊かな森林資源があったからこそ成し得たことであった。林道建設、森林の伐採とそれに続く植林は日本全国で行われていたし、この地の森林の現況もそれに符合する。

本題に戻って細い山道を追った。この道はかつて中武生から安寺や坂下に抜ける唯一の手段であった。標高320mから先は地形図記載と異なり、イワウチワの生える稜線から離脱して北側の谷に下って消える。一か所マーキングがあった。水がチョロチョロ流れる沢底が道の続きのようである。役目を終えた道を全行程辿ることを目的とはしていないので、それ以上追うのは中止。その存在の有無・現況が確認できて、昔の人々が往来した頃の様子がある程度推測できれば十分である。

戻る途中で梢越しに渓谷左岸の謎の民家(【36.722698N,140.451987E】)を遠望。次回は別ルートでアクセスしてみる。

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年月日: 2023年5月28日(日)

今年はツツジの当たり年。足尾にシロヤシオ見に行こうと思っていたのだが、どうも週末に青空に恵まれない。青空が望めないのであれば2年前と変わらないので行く意味が無い。終日雨が降ることはなさそうなので、残っている宿題を片付けに行くとするか。

今回は林道・武生線が安寺から流れる沢に最接近する場所から謎の民家にアクセスしてみる。昭和52年修正の地図に拠れば、その辺りから右岸沿いに道路が延びている可能性があり、送電線もその辺りから延びているからである。

一般車道優先を選択したはずなのに、クソナビが途中から高速道路に誘導しようとする。ルート選択し直してうまく国道50号に近道したものの、途中で前回とは異なるルート(ビーフライン)に誘導された。よくもまあ山の中にアップダウンとコーナーだらけの長い道路建設したもんだ。停止回数は少ないが、移動時間の短縮にはたいして貢献しない。意地でエンジンブレーキだけ使って走破。

花もタラの芽も期待できない季節。低山歩きに訪れる登山者も少ないみたいで、この時期の林道・武生線はとても静かだ。林道・武生線が安寺から流れる沢に最接近する場所・標高約355mのカーブ(【36.723489N,140.449390E】)に車を置いて出発。沢の対岸(左岸側)に地形図記載のない林道が延びていることが判った。まずは右岸側の様子を探ってみた。踏み跡や小屋の残骸のようなものがあるが、右手の支沢の合流点よりも下流側に道らしきものは見当たらない。地形図記載の実線は勾配的に存在し得ないのだ。沢底を渡って左岸側の未舗装林道に上がった。

この林道の建設年代および目的は不明である。草が伸びているものの荒れは無く、一応現役のようだ。日常的に使用されている様子はないが、真新しい車の轍があった。謎の民家の私道だったらどうしようと思いながら進行。

頭上に青い被覆の送電線を見て目的地に近づいたことを知る。支沢に向かって回り込むと、支沢の真上に築かれた石積みと潰れた建造物が見えた。林道から沢右岸沿いにこの建造物に向かう道があるが、明らかに現役ではない。建造物の手前で折れ曲がって斜め上に向かう道を進むと。ここにも小屋らしきものが2棟あって、一つは倒壊している。一帯は竹に侵略されて荒れ放題。その向こうにあるのが目的の家屋みたいだが、人が住んでいる気配なし。

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支沢の真上に築かれた建造物(おそらく貯水施設)
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小屋
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住居


サッシ窓のしっかりとした造りの家屋で、表側は今でも人が住めそうな感じ。

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他にアクセスルートが存在するのか確認すべく、まず庭を通って反対側へ移動。大きな納屋があって、その横に幼少期に見た脱穀機や木臼などが残されている。

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手回し式脱穀機
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木臼


家屋裏側の敷地にはいろいろ物が転がって雑然としている。裏側の窓が外れていて中が丸見え。これまで見てきた廃屋とあまりに異なる様子に戸惑った。住人は生活用品を全て残したまま去ったように見える。他所に引っ越すならば家財道具全て置いていくことはあり得ない。居住者が亡くなったとしても関係者の誰かが遺品を整理するだろう。此処が資料3の情報にある断絶した家なのかもしれない。

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窓の横にぶら下がっていた旧水府村の議会だよりの日付が平成元年(1989年)11月である。1990年に放棄されたとして33年も経っている割には内部が風雨の影響を受けていない。建物の屋根がしっかりしており、しかも表がサッシ窓であるためであろう。

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支沢右岸沿いに登っていく道がある。竹林の区間だけイノシシに穿り返されて道形がはっきりしないが、上方は明瞭で問題なく辿れる。山道の左側に横山家の墓地があり、フキの葉が茂っている。近年に子孫の墓参が行われた形跡はない。最も古い墓の年代は明治時代である。

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墓地の近くには茶の木が多くみられるのでお茶の生産も重要な収入源だったと考えられる。山道はさらに上方に続く。沢沿いの林道が建設される以前は、この道を辿って安寺や坂下と行き来していたはず。

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山道は安寺地区から来る尾根上の未舗装林道に抜ける(【36.724022N,140.453918E】)。未舗装林道の路面に荒れはないが、現在は使用されておらず、ほぼ廃道状態。藪化した林道終点広場からスギ植林地内の山道が続く。この山道は近代の地形図には記載されていないが、昭和11年以前の地図に載っている古道である。スズタケの藪になってはいるが、今も道を追えるし歩きにくくもない。マダニも見なかった。

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棚倉構造線に沿った尾根の東側は急峻で坂下地区の民家を見下ろせる。岩場は存在しないが断崖状の際を掠める場所があるので気が抜けない。昭和11年以前の地図に拠れば、中武生から来る破線路は谷筋を詰めて鞍部(【36.721786N,140.456021E】)に接続する(実際に鞍部に接続する道が在るか否かは未確認。)。

尾根上の道は坂下に向けて下っていく道と、尾根を直進する道に分かれる。地形図上は分岐の辺りに家屋が示されているが、現存しない。2024/01/12追記、1975年の空中写真(資料5-②)でも確認できない。直進する道は430m級ピークの北西斜面を巻いて尾根を乗越した場所(地形図記載の最も南の家屋の在る場所)で終点となる(【36.720624N,140.454991E】)。家屋の残骸を見るのみ。近くに水場は無い。電気が引かれていたか不明。2024/01/12追記、空中写真(資料5-②)に拠れば、1975年当時、南に開けた谷間の斜面が耕作地であったらしきことが判る。西側のピークまで行って見たが、現在の地形図に記載の中武生から来る破線路に相当する道のようなものはなかった。

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祠も墓も見当たらない。藪漕いで430m級ピークに上がってみたが何もない。

坂下に向かう道の現況を確かめてから林道終点に復帰。

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昭和52年修正の地図には450mポイント付近に家屋の記載がある。林道を戻っていくと、その辺りに竹林が広がっており、竹林の中に1本の大きな桐の木が見える。人と関りがあった場所であることは間違いない。石積みの入り口跡(林道建設で削られて判別しにくい。)から竹藪の平場に降りた。家屋の残骸は見当たらない。ゴミの投棄場になっていた時期があったらしく廃棄物だらけ。竹藪につきものの藪蚊がプーン。不快な場所だ。2024/01/12追記、空中写真(資料5-②)に拠れば、1975年当時、まだ家屋が残っており、周囲はまだ竹林に被われていない。

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山道を下って渓谷沿いの未舗装林道に戻った。最後に林道がどこまで続いているのか確認してみた。林道そのものに荒れはないが、横山家の入り口のある支沢を渡った先の区間は藪化している。普段は横山家に用事のある車しか通行しなかったということだ。道路は支沢右岸で終点となる(【36.721666N,140.452832E】)。昭和11年以前の地図に記載されている中武生から来る破線路はこの支沢を詰める。支沢上流は勾配緩く、道跡らしきものが存在する。一方、下流側はV字状で、斜面に設けられた足幅程度の道しか見当たらない(獣道?)。沢底を辿ったのではないだろうか。昔の中武生の住民にとって外界に出るのは大変な労苦であったろう。

林道を戻る際、ヨブスマソウを発見。北海道では平地でもイタドリ並みにでかいヨブスマソウが繁茂しているが、本州ではあまり見ない。

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マムシグサとヨブスマソウ


エゴノキとコアジサイの花が咲き、好きなシデ類の果穂が多くて楽しめた。帰りはクネクネした舗装林道を敬遠して、安寺から北上して国道461号に抜け、栃木県経由で帰宅。